豊臣秀吉の弟・秀長を主人公に据えたNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。ドラマをより楽しむ上で、天下人の秀吉がどんな人物だったのかを知っておくのも大切だ。人気東大教授・本郷和人氏が秀吉の生き様をおもしろく解説する。
本郷和人氏の書籍『豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か』(河出新書)より一部を抜粋・再構成し、豊臣秀吉の考え方や彼の目的を考える。
「家」のヴィジョンがない秀吉
秀吉の、生まれからきたもうひとつ大きな特殊性として、彼は「家」というものがわからなかった。武士にとって何が大切かというと血縁、血のつながりではないのです。家です。家のつながりこそが重要で、鎌倉時代、さらには平安時代から、「家が栄える」ことが武士にとって最大の目的でした。
しかし秀吉はそういうかたちでは行動していない。「豊臣家というものを繁栄させるためにはどうするか」というヴィジョンが、秀吉は根本的にわからなかったのかもしれません。とにかくそうした目的では動いていないのです。
たとえば鎌倉幕府において、源頼朝は源氏の一族という概念をつくった。室町幕府でも、足利の一族が各地に守護大名として配置されていて、それらが室町幕府を支えるという構成になっています。幕府の実権は斯波、細川、畠山といった家が握っていましたが、これらはみな足利の分家です。
歴代の権力者は、そのように政権を構築する。信長もまた織田一門というものをしっかりと確立しようとしていた節がありますね。
長男の信忠には嫡流として家を継がせる。そして次男の信雄、三男の信孝、このあたりにはしっかりと領地を分け与える。信雄には伊勢の領地を分配しています。四国遠征軍を送った際には、形式上は織田信孝が大将となっていました。あれは四国を占領した後に、四国の一国を信孝に与えることを考えていたのでしょう。そして将来は信雄や信孝の家が一門として、信忠の嫡流織田家を支える。さらにその下に家来の家がある。そうした「織田のかたち」を考えていた節がありました。
たとえば漢帝国では、各地に、劉氏の一族を王として配置していました。そのように一族をちりばめておいて、その上に皇帝の本家劉氏が君臨する。各地の王は、本家を支える。皇帝の下に王の一族をつくっておくという考え方が中国にはあるわけです。もっとも漢帝国の場合は、地方の王が力を持ちすぎて「七王の乱」が起こったのですが。
信長は中国の歴史書をずいぶん読んでいた形跡がありますから、おそらく漢帝国のことも知っていたのでしょう。織田家もまた漢にならって、各地に一門の家を配置する構想を考えていたと思われます。
ただしその構想は家臣たちにとってみると「結局、信長様は織田家だけを重んじていて、俺たちの立場はなくなっていくな」と感じられたことでしょう。特に明智光秀や羽柴秀吉などは強く感じていたのではないか。信長は、光秀でなくともいずれ他の家臣に殺される運命だったのかもしれません。
天下人 without 秀長
しかしこれが秀吉となると、一門をつくろうにも血縁者がいなかった。もとが農民ですから豊臣家の分家なんてものはありえない。その意味でいうとバランスがよくなかった。もちろん他の大名に豊臣や羽柴の名乗りを許すということはやっているのですが、それは「豊臣一族をつくり出す」という動きでは、おそらくなかった。
たとえば小早川秀秋。この人はもともとねねさんの甥で秀吉の猶子(ゆうし)となり、豊臣秀秋と名乗っていました。その貴重な「豊臣」を小早川家に養子として押しつけて、他家の人にしてしまっています。そういうことをやっているために、将来、秀頼を支えてしかるべき「豊臣一族」が減っていく。
秀吉は秀頼を後継者として太い存在にするために、甥にあたる豊臣秀次の一族を皆殺しにしています。信長の場合は、弟の信勝は殺しても、その息子の信澄に津田という姓を与えて生かした。そうすることで彼が親類衆となって本家を支えることを期待したわけです。秀吉も、もし「家」のかたちを考えるのであれば、秀次の子どもまで根絶やしにする必要はなかった。生かすという方策もあり得ました。
しかも秀吉は、秀次一族だけではなく、秀次の周りにいた大名たちにまで切腹を命じるという無茶苦茶なことをやってしまっています。「家」というものを理解していない。あるいは理解していてもどうしようもなかった。その辺りもまた秀吉にとってのアキレス腱になったと思われます。
生まれに伴う不利があっただけに、弟の秀長が内政面で頑張ってくれたことは、秀吉にとって非常に大きな助けとなっていたでしょう。
秀長が亡くなるとのちの五奉行になる奉行衆が台頭してくる。ということは、五奉行がやっていたことを、秀長は一人でこなしていたと見ていいのかもしれません。秀吉にとって非常に重宝な人物で、役に立ってくれたからこそ、名目上、百万石という大きな領地を与えて、感謝の気持ちをかたちにした。
もし秀長がもっと長く生きていれば「豊臣一族」をつくり出す助けになったかもしれませんね。しかし残念ながら、秀長もわりと早くに亡くなってしまう。しかも秀長の後継者になった秀保という人も若くして亡くなってしまった。次々に羽柴なり豊臣なりを名乗れる人たちが減っていく。そういうところにも秀吉の悲劇はあった。

