最新エンタメ情報が満載! Merkystyle マーキースタイル
書籍『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』刊行記念! 小川晋(著者)+川原和彦(かわらのジョナサン)対談第1回 「私たちはバンダイといえば『トラック野郎』!」

書籍『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』刊行記念! 小川晋(著者)+川原和彦(かわらのジョナサン)対談第1回 「私たちはバンダイといえば『トラック野郎』!」

「かわらのジョナサン」とは何者か?

川原 先ほど、出会いについて簡単に触れましたが、ここで少し私のことをお伝えしようと思います。デコレーショントラック専門誌『カミオン』の読者にはお分かりいただけている方もいらっしゃると思うのですが、一般的には「誰?」状態だと思いますので。

2002年頃だったか、ネットが普及しはじめたのに乗じ、『トラック野郎』好きの仲間のつながりが出てきたんです。その時に知り合ったのが、現在函館在住の「マルユキ商店」さん。『トラック野郎』のバックに流れる音楽を一緒に解読し、曲集めを行っておりました。初めてお会いしたのは大阪で10分くらい。2回目に会った時には家に泊めていただいて……(笑)。その彼が今回の50周年ロゴのデザイナーさんなんですよ。当時の私はもともとの地図好きに乗じ、ロケ地探しをボチボチ始めていました。小川さんのお名前は『カミオン』や『トラックキング』で拝見しており、世の中には似たような好き者がいるもんだなと思っていたんです(笑)。年齢も同じだと。そうこうするうちに小川さんは『トラック野郎大全集』を出版され、この頃にはトラック野郎研究家として認められてきた。私はいち読者として見ていながら、ひたすら独自研究を行っていました。ただ、当時は北海道在住でしたから、そんなに幅の利いた活動はできなかったんですね。それが2011年「東日本大震災」の時に東北(青森県)に転勤となり、初めて北海道から出たことで大きく流れが変わりました。ただ悔やまれるのは2012年の哥麿会(うたまろかい)の夏のイベントだったか、鈴木監督と吉川団十郎さんがゲストで来られたときがあって、それに行かなかったんですよ。また機会があるだろうと。結局2014年5月15日を迎えてしまい、もうなんと言ってよいやら……。そのお陰で、逆に今の流れがあるとも言えますが。2017年には『度胸一番星』の公開40周年記念で、『カミオン』に「大人の自由研究・ロケ地調査」として記事を掲載していただきました。その後はコロナ禍等もあり3年ほど間が空きましたが、第1作の公開45周年の時に第2弾として復帰し、以降年に1~2作品を掲載中です。

小川 2002年だと、映画『トラック野郎』をテーマにした初の出版物である、『カミオン』増刊の『天下御免の特別號』がリリースされる前年ですね。私が国会図書館で『トラック野郎』の記事が掲載された、当時の雑誌を調査し始めた年です。まだ、鈴木則文監督とも知り合っていません。偶然にも『天下御免の特別號』が発売された直後、私は『トラック野郎 資料集』という500ページ越えの本を5冊限定で自主出版し、そのうちの1冊を監督へ送付したのが、その後に監督と交流を持つきっかけとなったのです。もしここで川原さんと出会っていたら、全く別の展開となっていたでしょうね。しかし、ムック『トラック野郎大全集』も発売されてから早15年も経ってしまいました。

川原 その頃の時系列ってそんな感じだったんですね。私が初めてPCを持ったのが2001年か2002年だったはずで、その頃に出会っていれば……全く違うでしょうね。

▲鈴木則文監督と小川氏が交流を持つきっかけとなった、私家本『トラック野郎資料集』(2003年発行、非売品・限定5部)

「これは子供に観せる映画じゃないなぁ……」

川原 私たちの年齢(1972年生まれ)って、劇場で『トラック野郎』を観ている人といない人に分かれるじゃないですか。私たちは劇場で観られなかった組。私はそれ以前に、父親がポピニカ「光るトラック野郎」をミニカーの1台として買い与えてくれたんです。映画も未だ見たことのない当時に(笑)。それが『トラック野郎』との出会いでした。モノは爆走だったか天下だったかは不明。現在は廃車置き場の箱もあおりも無いトラックになっています(笑)。そして土曜ワイド劇場での出会いになります。小学校1年生の頃には「一番星」の名を認識していた記憶があります、トレーラーに「一まんぼし」って自分で書いた紙を貼って遊んでいましたから。小川さんはどんな感じで『トラック野郎』に出会いましたか?

小川 そう、われわれは劇場での封切りを観られなかった組ですね。私がポピニカ「光るトラック野郎」の存在を知ったのは、実は成人になってからです。もちろん、バンダイの1/48プラモデルはいくつか買ってもらって作りましたが……。『トラック野郎』に最初に触れたのは1976年の8月、4歳の時。お盆休み、群馬県桐生市にある、父の実家に家族で行った際、私はたまたま新聞に載っていた『望郷一番星』の広告に興味を持ち、父の兄である叔父さんに「これは何?」と訊ねた記憶があります。『望郷一番星』なんていう文字は読めませんが、文太さんが牧場で使うピッチフォークを担いでいるポーズを鮮明に覚えているので、間違いありません。ここで初めて「トラック野郎」という言葉を覚えました。数日後、従兄弟(当時小学生)が私の父に「トラック野郎を観に行きたい!」とせがみ、父とふたりで観に行ったんです。今から思えば、『トラック野郎』って大人だけでなく、子供にもかなり人気があったんですよね。しかし私はまだ4歳ですから、映画なんか観たこともないけど、子供心に「ずるい! なんで自分も連れてってくれないの!」みたいな妬みを感じていました。「大人になったら絶対観たい!」っていう思いがあったみたいです。映画館から帰ってきて、父が「これは子供に観せる映画じゃないなぁ……」と言ったのが、忘れられません。

川原 映画館に行く親であるのが羨ましいです。わが家は映画館自体に行く家庭環境にあらず、『トラック野郎』が映画だと認識したのは小学校高学年くらい。それまでは、テレビでたまに放送する長時間ドラマくらいの認識でした。1978年12月16日の夜にテレビ朝日「土曜ワイド劇場」の特別編として初放映された『トラック野郎 御意見無用』を見ていたのが始まりです(注※)。でも『トラック野郎』より前に『火曜日のあいつ』は当時テレビ放映で見ていました。子供心に記憶が残っているのは、丸太の橋を渡ったり、燃えている倉庫にバックでトラックが入っていくシーンなど……。ただそれ以来一度も目にしたことがないから、正しいかどうかは不明ですが。そして小学校2年生の頃に初めてバンダイ1/48「突撃一番星」のプラモデルを購入。この頃になると土曜日の午後にテレビ放映されていたこともあり、半ドンのため友達が遊びの誘いに来るも「今日は『トラック野郎』がテレビでやるから遊べない、じゃあね」と断っていたような小学生でした。『仮面ライダー』やヒーロー戦隊もの、ロボットアニメには全く見向きもせず、われわれの世代のど真ん中である『ガンダム』は、1話も通して見たことがありません。『トラック野郎』一筋の健全な小学生で、周りにはいないタイプでしたね。そりゃそうか(笑)。
(注※):1979年4月7日『トラック野郎 爆走一番星』の可能性もあり。ここの記憶は曖昧。

小川 小遣いはくれなくても映画には理解ある家庭でしたので、私は小学生でも『E.T.』や『グレムリン』なんかを映画館で観ていました。しかし、『トラック野郎』に関しては否定的でしたね。「勉強もしないで、また『トラック野郎』なんか観てる!」と、よく母にはドヤされましたよ(笑)。プラモデルについては、今やアオシマから精巧な一番星号がモデル化になっていますが、私の青春はバンダイの1/48ですね。今見てもちゃちだけど、思い入れがあります。川原さんが最初に手に入れたのは「突撃一番星」でしたか。私は「天下御免」です。そして『ガンダム』ねぇ……ホント、流行っていたけど、私も未だまともに観たことがないです。たいていのクラスメイトはガンプラにむさぼりついていたけど、私はバンダイ『トラック野郎』の1/48はほとんど作りました。でも「爆走一番星」はなぜか見つからなくて、何件もプラモデル屋をハシゴしたこともありました。

川原 われわれの世代はバンダイといえば『ガンダム』。でも私たちはバンダイといえば『トラック野郎』。私も1/48を好んでいたというか、それしか手が出なかったというか……。当時1,200円で何とか買えましたが、8,000円の1/20は買えませんでしたからね。物心ついて1/48望郷とか欲しいと思ったときには全く見ることもなく、当時は天下、度胸、突撃、熱風、故郷、ジョナサンしか手に入らなかった。実際は1/48も1/20も突撃しか作っておらず、あまり模型には手を出しませんでした。そのうち1/48は発売されなくなり、その反動か再販の時は一山大人買い(笑)ただ、あのレアな1/20ジョナサン号は買ったんです。その頃からジョナサンに縁があったのかな。ディティール的には1/32「一番星列島縦断」や「男の出陣」は良かったですね。あの仕様の「故郷特急便」があったらと未だに思います。私は「一番星列島縦断」を購入。当時3,000円、今では考えられないコスパです。後のラジコンの型ってあれの気がしてならないのは私だけですかね、メイン行灯の妙な大きさとかが通ずる気が……。それでラジコンは4台手を出しました。

小川さんが言われるとおり、アオシマの一番星は精巧ですが、バンダイのチープさがまた心をくすぐる。精巧さでは青森に住んでいた頃に知り合った伝説のモデラー藤井忠右ェ門さんの作品は本当に素敵でした。才能のない私からは神にしか見えない。アオシマのモデルがない頃から、あのレベル以上の作品を作っていたんですから。

小川 確かに小学生レベルで1/20は高値の花でした。「天下御免」「度胸一番星」「突撃一番星」「熱風5000キロ」はパッケージがイラストでしたが、「故郷特急便」だけ実物の写真が使用されていたことで人気があり、大抵売り切れていた印象がありますね。1/48、今や未組立だと数十万円の価値を誇る「ボルサリーノ2」および「雲龍丸」はいつ頃まで発売していたんだろう……?

川原 雲龍丸は1980年くらいのバンダイのカタログには載っていなかったようですから、シリーズ終焉前にはラインナップから消えていた可能性が高いですね。ボルサリーノ2の実際の発売は天下御免が発売になった後だということを考えると、何らかの大人の事情で、映画公開から1年くらい発売のブランクがあったようですね。それが故、ボルサリーノ2のボックスアートで後方を走る車輌が天下御免の一番星号だったのでしょう。それにしても、あの頃はプラモデルもリーズナブルで買いやすい時代でしたが、まさかこんなに価値が上がるとは思っておりませんでした。

PROFILE
小川晋(おがわ・しん)
1972年、東京都町田市出身。2001年、日本映画学校(現・日本映画大学)演出科を卒業後、『キューティーハニー』(2004年 庵野秀明監督)や『火火』(2005年 高橋伴明監督)等で装飾小道具を担当する一方で、日本娯楽映画の映像文化を研究。特に『トラック野郎』に関しては、幼年期にたまたまTV放映で観たシリーズ第1作『御意見無用』のクライマックス、ズタボロになった一番星号の爆走シーンに強烈な衝撃を受けて以来、果てしなき探究を続ける。2014年『トラック野郎ブルーレイBOX 2』(東映ビデオ)ブックレットの構成・解説、翌年リリースのCD『歌え!!トラック野郎』及びCD第2弾『帰ってきた!!トラック野郎』(ユニバーサルジャパン)のサウンドトラックディスクの選曲・掲載データ作成に従事。2022年、デコレーショントラック専門雑誌「カミオン」(芸文社)で、『トラック野郎』シリーズ全作を担当した美術監督・桑名忠之氏が作成したロケハン記録で撮影当時を同氏と振り返る「スクラップブック回想記」を連載。著書に『映画トラック野郎 大全集』、共著に『実録やくざ映画大全』(ともに洋泉社)、『アデュ〜 ポルノの帝王 久保新ニの愛と涙と大爆笑』(ポット出版)、『不良番長浪漫アルバム』(徳間書店)など。「トラック魂(スピリッツ)」(交通タイムス社)で約3年間掲載された連載記事をまとめた『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』を昨年10月に刊行。

川原和彦(かわはら・かずひこ)
1972年北海道恵庭市出身。幼少期からの地図好きと車好きが高じ、TV放映で観た一番星号を始めとするトラックの爆走シーンに釘付けとなる。地図好きとトラック野郎好きな子供が、一番星号の通った軌跡を地図で追っていたのが功を奏し、ロケ地の本格的調査研究をはじめる。1991年札幌学院大学入学後、映画研究会に所属し、同大学卒業後は自身の趣味を生かし、地図調製業を生業とし現在に至る。
国内Aライセンスを取得し、モータースポーツ(レース・スノートライアル・ジムカーナ等の自動車技活動)を2000年頃から開始、現在も継続中。全日本選手権の参加経験あり。
2011年ロケ地の現地調査を本格的に開始する。
2015年リリースのCD『歌え!!トラック野郎』及びCD第2弾『帰ってきた!!トラック野郎』(ユニバーサルジャパン)のサウンドトラックディスクの選曲・掲載データ校正に従事。
2017年に新潟日報社がシリーズ5作目「度胸一番星」の40周年特集記事を掲載するにあたり、ロケ地アドバイザーとして同行協力したのを機に、同年トラック専門雑誌『カミオン』(芸文社)の協力を得て、大人の自由研究「トラック野郎ロケ地調査」として不定期特集を開始し現在に至る。

いかがだったでしょうか? 『トラック野郎』を巡る対談はとめどもなく続き、次回はそれぞれの専門領域のお話などを、よりディープにお届けする予定です。それまでは『トラック野郎 50年目の爆走讃歌』を読んでお待ちください!

(執筆者: リットーミュージックと立東舎の中の人)

配信元: ガジェット通信

あなたにおすすめ