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「物事には見方があり、接し方や楽しみ方がある」米川伸生が魅了されたプロレスと回転寿司の共通点

「物事には見方があり、接し方や楽しみ方がある」米川伸生が魅了されたプロレスと回転寿司の共通点

回転寿司評論家・米川伸生
村瀬秀信氏による人気連載「死ぬ前までにやっておくべきこと」。今回は回転寿司評論家・米川伸生氏をインタビュー(中編)。回転寿司の魅力について、たっぷり語っていただいた。

“安かろう悪かろう”の代名詞だった回転寿司だが…

回転寿司評論家・米川伸生が一番好きだったという“回転寿司がプロレスだった時代”。それを振り返るには、米川の少年時代に遡る必要がある。

1966年、米川は公務員の子として東京に生まれた。4歳のときに大阪万博で回転寿司の元祖『廻る元禄寿司』に出会い、米川の“回天”を地でいく人生が始まった。

「翌年、ロサ会館の横にも元禄寿司ができて、祖母が池袋に住んでいたから、これもよく行っていたんです。それを契機に、いろんな回転寿司に行きましたよ。ただ、当時の回転寿司というのは安かろう悪かろうの代名詞。カウンターの寿司が本物で、回転寿司は『まがいもの』、『うさんくさい』、『八百長』…ほとんどの人がそんなことを言っていましたよね。ただ、僕はそこに非常に親近感を覚えた。同じようなことを言われ続けていたものがあったからね。プロレスですよ」

米川少年はプロレスラーに憧れていた。7歳のときに見たアントニオ猪木対ジョニー・パワーズでプロレス魂に火が付き、ドラゴン藤波辰爾の闘志に心を奪われた。

一時は本気でプロレスラーになることを夢見てトレーニングに勤しむと、慶応中等部に入る頃には、深夜0時から4時まで『オールナイトニッポン』を聞きながら腹筋・腕立て・スクワットを2000回ずつこなすバケモノとなっていた。

「本当はプロレスラーになりたかったんだけど、僕には背が足りなかった。だから中学はラグビー、高校は応援部に入ってね。ただ、慶応中等部の女生徒は、ほとんどが幼稚舎から上がってくるケタ違いに金持ちのご令嬢。その集団に入ったときに、世の中の仕組みというものを俯瞰して見られるようになったんです。一方の男子はほぼ外部から来るから、その中でヒエラルキーが出来上がり、のし上がろうとケンカもしょっちゅう売られるわけ。僕は上背もないからナメられる。高校のときは、わざと人の目に付く正門に呼んで、ボディースラムでコンクリートに叩きつける。ケンカはこっちから売らないよ。ただ、挑戦はいつだって受けた」

死ぬ前にやっておくべきこと】アーカイブ

回転寿司業界の“まだ見ぬ強豪”を訪ねる旅

回転寿司評論家・米川伸生
“いつ何時、誰の挑戦でも受ける”。慶応の学び舎でひとり猪木イズムを体現していた米川は、決して群れず、異端の人として道なき道を突き進み始めた。

大学時代はバブルの全盛期。就職を控えた慶応の大学生などは企業から引く手数多どころか、海外旅行に連れて行かれたりと接待される狂った時代。そんな境遇にあっても米川は就職活動の一切を放棄している。

「僕は村上春樹になりたかったからね。だから、就職活動は一切せず、学生時代から出版社に頼まれてライターとして記事を書いていてね。たまたま取材した泉麻人さんに『キミ、面白いね』と言われて、卒業後、泉さんの事務所に放送作家としてお世話になるんです。業界デビューは『冗談画報』(フジテレビ系)のリサーチャーで、バラエティー番組がメイン。そんなときに第3次回転寿司ブームが来た。デカネタ寿司といってね、職人がつけ場に立って、市場から魚を取る、いわゆるグルメ寿司のはしりとも言うべき店ができた。同時期にローカルでも富山県氷見で『きときと寿司』が『氷見きときと寿司』と名前を変え、それらが夕方のニュースで大きく取り上げられると人気が爆発した。以前から僕は『サザンとドリフと回転寿司にものすごい詳しい』と言い触らしていたから、依頼が来て仕事になり始めるんです。でも、やっていくとネタは尽きてくる。そこからですね、ヒマを見つけては日本中を回って、まだ見ぬ回転寿司の強豪を訪ねる旅が始まったのは」

’95年、米川は回転寿司の情報を発信するホームページを作成し回転寿司評論家を名乗り始めると、’99年にはフジテレビの深夜番組『春夏冬中』に初出演。

名が売れていく一方で、面白いことを追求できなくなったバラエティー業界に嫌気が差して独立。雑誌に寄稿しながら2007年、テレビ東京系の『TVチャンピオン2 回転寿司通選手権』で他を寄せ付けない圧倒的な優勝を飾る。

「もともと放送作家を長く続けるつもりはなかった。何かしらの専門職に就きたいと思っていたから、それなら回転寿司でいいじゃないと。やっぱり好きなものじゃないと長く続かない。評論家といっても、回転寿司は世間に認められたものじゃない。いわば宅八郎のオタク評論家と同じキワモノですよ。評論家に説得力を持たせるには人からすごいと思われる知識や見識を持たなければならない。腹を決めて、全国の未踏だった回転寿司、1年で500店ほど全部回りました」

米川が回転寿司評論家を名乗り始めて30年が経つ。この間、回転寿司の評価は大きく変わり、「うさんくさいもの」から日本を代表する文化へと変貌を遂げた。

「プロレスが好きだった僕は、回転寿司でもずっと『うさんくさい』と言われ続けていました。でも物事には見方があり、接し方や楽しみ方がある。それを伝えることが僕の役目。そう思って戦っていたときが一番楽しかったかな。最近では減りましたけど、今でも『どうせ回転でしょ』という声はありますよ。慶応の同窓会に行くと大手企業の役員になった同級生に『まだやってんの』と小馬鹿にされるしね(笑)。でも、その度に僕のプロレス魂には火が点くんです。それはおまえが自らの不見識を喧伝しているだけだ。こんなに面白い世界があるのを知らないのかってね」

(後編に続く)

取材・文/村瀬秀信

「週刊実話」1月29日号より

配信元: 週刊実話WEB

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