
母なる自然の力は私たち人類をはるかに超越しています。
科学が理解しているのはほんの一部に過ぎず、自然の中にはいまだ多くの秘密が隠されているのです。
それなのに自然を好き勝手にコントロールしようとすることは、目隠しをした状態で機械修理をするに等しいでしょう。
ここでは人類が過去に自然に手を出して、しっぺ返しをくらった事件5選を紹介します。
目次
- 自然のしっぺ返しをくらった5つの事件
- サイレントヒルのモデルになった「消えない火災」
自然のしっぺ返しをくらった5つの事件
猫投下作戦

1950年代初め、東南アジアのボルネオ島でマラリアが大流行したことを受け、世界保健機関(WHO)は超強力な殺虫剤「DDT」を島中に散布しました。
これによりマラリアを媒介する蚊の駆除には成功しましたが、それと同時に予期せぬ破滅的な連鎖が巻き起こります。
ボルネオ島の住民は屋根の葺きわらを食べるイモムシに悩まされていたのですが、DDTはそのイモムシを捕食してくれるハチまで殺してしまったのです。
天敵がいなくなったことでイモムシは大量繁殖し、葺きわらをかじりまわって、屋根を崩壊させてしまう事件が発生しました。
それだけではありません。
今度は島中のネコが次々と死に始めたのです。
DDTは食物連鎖を通して生物の体内に濃縮されるものであり、生物の階層を上がっていくほど濃度が濃くなります。
最初にDDTに昆虫が汚染され、その昆虫をヤモリが食べ、そのヤモリをネコが食べました。
その結果、ネコの体内に高濃度のDDTが蓄積し、命を落とし始めたのです。

さらに島のネコがいなくなったことでネズミの数が急増し、マラリアではなく、発疹チフスやペストの流行を引き起こしました。
手がつけられなくなった島を救うべく、WHOは1960年にイギリス空軍の協力のもと、ネズミを撲滅する目的で、パラシュートを使ってネコを島に一斉降下させる作戦を実施します。
この一連の流れが「猫投下作戦(Operation Cat Drop)」として知られる事件です。
一説では1万4000匹のネコが投下されたとする報告もありますが、イギリス空軍の記録によると、実際はカゴに入れたネコを20匹ほど落としただけだったとも伝えられています。
サトウキビ産業の救世主となるはずが…
19世紀の終わり頃、オーストラリアで発展途上にあったサトウキビ産業はとある障壁にぶつかりました。
オーストラリア原産の甲虫(Dermolepida albohirtum)が、新たに定着したサトウキビの味を覚え、根を食い荒らしまわって、経済的な大損害を引き起こしたのです。
その最中、問題解決にあたっていた科学者たちは、中米プエルトリコでオオヒキガエルが同じサトウキビ害虫の個体数抑制に役立ったという話を聞きつけます。
そこで1935年に約2400匹のオオヒキガエルを輸入して、問題の地域に放したのです。
ところがオオヒキガエルが甲虫を食べている様子は一向に確認されず、甲虫はそのままサトウキビを荒らし続けました。
さらにオオヒキガエルの方も爆発的に増加し、オーストラリアの広い地域に版図を広げ始めます。

特に想定外だったのは、毒を分泌するオオヒキガエルを食べたことで、在来の捕食動物が次々と死に至り、個体数が減少してしまった点です。
サトウキビ産業の救世主となるはずだったのに、オオヒキガエルは今日もなお、オーストラリアの生態系の問題児になっているといいます。
サイレントヒルのモデルになった「消えない火災」
米ペンシルベニア州の町セントラリアは19世紀後半から、良質な無煙炭の採掘が盛んな炭鉱の町として栄えていました。
無煙炭は普通の石炭に比べて燃やしたときの煙や臭いが非常に少なく、暖炉の炭として打ってつけです。
しかし1960年代までに人々は石油を使った暖房に切り替えたため、無煙炭は廃れ、セントラリアの炭鉱も閉鎖されることになりました。
そして事件は1962年5月27日に起こります。
消防士が毎年の清掃活動の一環として、セントラリアのゴミ収集場に火を放ったところ、この火が予想以上にゴミの奥深くまで燃え広がり、放置された地下の鉱脈に引火してしまったのです。

火は勢いを増しながら燃え広がり、地面が70〜80℃の熱を帯びて、地下水は水蒸気となって煙や有毒ガスとともに地表に噴出しました。
数日間にわたって消火活動を続けたものの、火が消える気配は一切なく、一酸化炭素や二酸化炭素の濃度が高まったことで、住民は生活するのさえ困難になったといいます。
火はその後も延々と燃え続け、ついに州政府は80年代に消火活動を断念し、住民たちは移住を迫られました。

セントラリアはゴーストタウン化し、これが後にゲームや映画になった『サイレントヒル』の町のモデルになったと言われています。
セントラリアの火災は今なお燃え続けており、燃料となっている石炭が枯渇するまでには、あと250年かかる可能性があるという。
四害駆除運動
1950年代の毛沢東(1893〜1976)政権下において、中国は他に類を見ない産業の大変革を遂げました。
毛は彼の主導する大躍進政策(農作物と鉄鋼業の増産政策)の中で「人間は自然を征服しなければならない」というスローガンを大きく打ち出します。
それを受けて1958年に開始されたのが「四害駆除運動」でした。
四害駆除運動とは、毛が掲げた4つの害「ハエ・蚊・ネズミ・スズメ」を国民総出で撲滅しようとする運動です。

スズメを害獣に入れるのは意外ですが、毛はスズメが穀物を食べて収穫量を減らしていると盲信し、スズメを見かけたら即刻始末するよう国民に命じます。
人々は鍋やフライパン、バケツなど音の出るものでスズメを追い回し、木の枝で休む隙も与えず、巣を見つけたら壊して回りました。
加えて、飛んでいるスズメの射殺まで行い、ついに中国全土でスズメの数が激減するに至りました。
しかし目的を達したと安堵している人々の元に、自然のしっぺ返しがやってきます。
スズメがいなくなったせいで、それまで彼らの餌となっていたバッタが大量発生し、農耕地に襲来して作物を食い荒らしたのです。
さらに四害駆除運動は、まちがった森林伐採や殺虫剤の大量散布に生態系のバランスを壊し、最終的に数千万人の餓死者を出す事態となりました。
毛はスズメの撲滅は誤りだったとし、代わりに「トコジラミ」を四害の標的に加えたという。
この運動は1962年まで続けられ、中国からいなくなったスズメを補うために、旧ソ連から25万羽のスズメを輸入しています。
エミュー戦争

第一次世界大戦が終わり、故郷に帰ったオーストラリアの退役軍人たちは、政府から提供された西オーストラリア州の土地で小麦農業を始めました。
ところが1932年になって、彼らは新たな脅威に直面し、再び銃を手に取ることになります。
繁殖シーズン後の大移動にともない、およそ2万羽に及ぶエミューが農地に到来したのです。
エミューはオーストラリア最大の鳥であり、ダチョウのような外見で飛行能力はないものの、時速50キロものスピードで地上を走ることができます。
そして彼らは小麦畑の豊富な食料と安定した水源に気づくと、そこに住み着いて、農作地を荒らし始めたのです。

その状況を見かねたオーストラリアの防衛大臣は同年11月、兵士を派遣してエミュー軍との戦争を始める決意をしました。
この戦いには従軍経験のある農家たちも参加したといいます。
銃を持っている人間軍の圧勝だろうと思いきや、意外なことに、エミューの群れに対して銃は高い効果を発揮できませんでした。
報告によると、エミュー1羽を仕留めるのに10発以上の弾丸を消費したとされ、明らかにコストや労力の面でマイナスとなっていました。

またエミューの群れは銃弾にまったく臆する様子もなく、兵士の立ち向かってきたという。
さらに一般大衆からはエミュー戦争に対して「あまりに馬鹿げたものであり、国費の無駄遣いだ」との批判が相次いだそう。
結局、目的は完遂されないまま軍は撤退し、戦争はエミュー軍の勝利に終わったと見られています。
参考文献
10 times humans messed with nature and it backfired
https://www.livescience.com/planet-earth/times-humans-messed-with-nature-and-it-backfired
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

