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「そんなこと言って本当は…」なぜ若者たちは人の言葉に何か裏があると考えてしまうのか

「そんなこと言って本当は…」なぜ若者たちは人の言葉に何か裏があると考えてしまうのか

社会に蔓延る不真面目さ

怖い気持ちを克服すべくコミュニケーションを取ろうとすることを妨げるものがある。「不真面目さ」だ。若者を例に考えよう。大学で教えていて「この講義では出席を取りません」と通達する。するとたまにこういうリアクションが返ってくる。

「そんなこと言って本当は、何回目かで抜き打ちで取ったりするんでしょう?」

ちょっと驚いて訊いてみると、高校までにそういう経験があるそうだ。いまそういうことをすると教員側が怒られるので大学ではそうそう起きないはずだが(教員への管理が厳しくなったことの証左でもある)…。課題や行事に真剣に取り組まない若者に問うと、半笑いで「本当はこんなの別にマジメにやるようなことじゃない」と返してくる。閑職のオジサンみたいな発想を既に身につけている。

ともかく、この手の話はよく聞く。「本当は」とか「実は」みたいな枕詞をともなって、常にハックや抜け道があるかのように考えているのだ(飲み会かどこかでウラ情報を得ているのかもしれない)。

ここで言う不真面目とは、目の前にいる人の言葉をそのまま信頼しようとはせず常に裏読みをして、隠された意図や目的を推測するような性向である。若者が不真面目なコミュニケーションを基軸にするのはとても危険だ。そして正直、先行世代である大人がそうさせているとしか思えない。

不真面目さが危険なのはインフルエンサーや悪徳業者の常套手段でもあるからだ。政府のメッセージや有名人の発言を常に信じず「本当は」「真の」といった文句で「あなただけは騙されてはいけない」と誘引する。

でもそう思ってしまう気持ちもわかる。地位の高い人たちが堂々とごまかした発言をする。一部マスコミの権威も失墜しつつある。就職活動だってフェアとは感じられない。社会が不真面目だから若者も不真面目になるのだ。

理解の根本に不真面目さを求めるコミュニケーションは健康的でなく、結果的に大きなコストと軋轢を招く。不真面目さには規範がないからだ。何かを頼りにしようと思っても、最後までエビデンスもデータもない。感想すらない。正解のない世界に対して、斜めに構えるだけの人生になってしまう。

新しいものを信じたところで…

価値観のアップデートという言葉をよく聞くようになった。なんか古い価値観はダメらしく、新しいのに合わせろということらしい。多様性の尊重とかパワハラをしないとか、なんとかかんとか。じゃあ過去にやってきたことは何だったんですかと言いたくなる。

新しいモノが良いのかは置いておこう。古いモノがやたらにダメだと叫ぶのだけど、それはかつて新しいモノだったんじゃないのか。いま押し付けてくるアップデートされた価値観もすぐ陳腐化するんでしょ。先述の不真面目さにも繋がる。いま信じさせられていることがいつひっくり返されるかわかったものじゃない。どうせそのうち誰かの都合で変えられてしまうのだろうと思ったら、本気で信じるのは難しい。

有力企業がダイバーシティ施策をやめると言い出したのは象徴的だった。企業の気持ちもわかる。管理職の男女や人種の比率を上げろ(変えろ)と社会から要請される。その通り努力しても、まだまだこれが足りないと無限の要求が続く。

そもそもダイバーシティとは何なのかは隅に追いやられて、特定属性の比率だけを叫ぶようになっていく。もはや多様性ではなく二様性(Aかnot Aか)である。

しかしダイバーシティは社会にとって間違いなく大事なことで、もっと全員で協力的に大切に進めていくべきだったはずだ。それをあっけなく巨大企業が放棄してしまったことには失望も怖さもある。若者はいっそう「あっ、他人の言うことを簡単に信じちゃいけないんだな」って思うだろう。

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