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中3で夜逃げ、2年間のホームレス生活。36歳で「こども万博」を創設し、9.5万人を動員した元看護師の話。

中3で夜逃げ、2年間のホームレス生活。36歳で「こども万博」を創設し、9.5万人を動員した元看護師の話。

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

手塚麻里さんは、「中3から2年間ホームレス生活を送る」という壮絶な過去を経験しました。その後、看護師として10年間キャリアを積んでいましたが、はたらき方や住環境を変えたことで、人生が大きく動き出します。

2022年に、手塚さんは子どもの夢を応援するイベント「こども万博」を創設。2025年10月には大阪・関西万博でも開催され、想定の4倍以上となる約2.4万人が来場しました。

看護師から「こども万博」の創設者となった手塚さんが、“自分らしいはたらき方”にたどり着くまでの道のりを伺いました。

中3のときに夜逃げ。中高一貫校を退学寸前に

──中学3年生で夜逃げを経験したそうですが、当時の状況を教えていただけますか。

もともと横浜の教育熱心な地域で育ち、子ども時代は毎日何かしら習い事があるような生活でした。ただ、両親は「子どもらしく思いっきり遊んでほしい」とも思っていたようで、小学2〜3年生のころ北海道の自然体験留学に参加させてもらった思い出があります。

私立の中高一貫校に進んで、部活はダンス部に入っていました。でも中3の9月、テスト中に先生に呼び出されて「このまま親戚の家へ行きなさい」と言われたんです。「親が交通事故にあったかな……?」と不安になりました。

親戚の家には母がいてホッとしましたが、「今日、夜中に一度だけ家に帰る。この箱に、絶対手放せないものだけを詰めて」と箱を渡されて、「もう二度と家には戻れないよ」と。経営者だった父が、仕事でトラブルに巻き込まれたんです。

夜中、懐中電灯を口にくわえ、暑い時期でしたが光が漏れないように窓を閉め切って、箱にゴソゴソと荷物を詰めて家を出ました。

──平和な生活から一転、衝撃的な一夜だったと思います。

ただ、「涙ながらに」というわけではなくミッション的なわくわく感を感じていましたね。その先に何が待っているのか、想像もつかなかった。

でも「学校を辞めなければならない」と知って急に現実味が湧いて。

翌日、担任の先生と理事長に事情を話しに行くと、「ここは幸い高校まである。卒業まで無償で通っていい」と言われたんです。

でも条件が1つあり、「自分の力でお金を稼げるようになったとき、次世代の子どもたちにできることをしてあげてください」と。

中3で夜逃げ、2年間のホームレス生活。36歳で「こども万博」を創設し、9.5万人を動員した元看護師の話。
大阪・関西万博の一角で開催された「こども万博」でスピーチをする手塚さん

──それは、手塚さんが優秀な生徒だったからなのでしょうか。

いえ、私は勉強は全然できないし、部活命で生きているような普通の生徒でした。

理事長も、この一件ではじめて私を認識したようですし、担任の先生も「えっ」と驚いていたのを覚えています。

──夜逃げ後はホームレス生活を送ったそうですが、どんな経緯だったのでしょうか。

父とは離れて暮らすことになり、母子で都内の親戚に受け入れてもらったものの、二家族が生活するのは物理的に難しく、親戚の負担をすぐに感じ取りました。

明るかった母も、人が変わったように「ごめんね」としか言わなくなって。私の記憶だけで4回くらい、母と兄と「今日が最後。命を絶とう」と話したことがありますが、そのたびに声をかけられたり、人の出会いがあったりして、命や未来がつながりました。

母は朝から晩まではたらき、兄は奨学金を取るために必死で勉強。兄は勉強もできたので、母の良き相談相手でした。でも私の存在はマイナスでしかない。そう思って、「春と秋は気候がいいし、外で過ごそう」と、高1の春ごろから、学校へ通いながら公園や駅の近くで寝泊まりするようになったんです。

私のことを家出少女だと思ったホームレスの方が食べ物を分けてくれたり、ベッドのつくり方を教えてくれたり。

部室でシャワーを浴びていたら、先生が制服を洗濯してくれたこともありました。夏場と冬場は、小学生のころ自然体験留学で友達になった上級生のお兄さん・お姉さんが大学生になり、東京で一人暮らしをしていたので、1カ月泊めてもらったりして……本当に、周囲に助けられて生きていた時期でしたね。

高2で母と兄と3人で暮らせるようになったときは「雨風凌げる家があるって最高!」とめちゃくちゃうれしかったです。

都内の2DKマンションから、神戸の3階建て一軒家へ。引越しが大きな転機に

──その後、看護専門学校を卒業し、大学病院の救命看護師→美容クリニックの看護師→インターナショナルスクールのスクールナースとキャリアを歩まれたそうですね。

救命看護師2年目のころ、「オペで終わりじゃなく、その先も患者さんや家族のケアをしてあげたい」と思うようになったんです。

そのころ、中学時代の理事長にご挨拶へ行きました。看護師になったことを褒められるかと思いきや、理事長はもう一度「今の自分のサイズでいいから、次世代の子どもたちにできることをしてあげて」と。

その約束を果たすことが真の恩返しになるんだと、そのときはじめて理解しましたね。

次に、来院から回復まで患者さんと長く関われる、大手美容クリニックの看護師に転職。

その後結婚して2人の子どもを授かり、土日出勤のやりくりが難しくなって。2015年に、土日休みのインターナショナルスクールの「スクールナース」になりました。

でもそこでは、それまでのように常に看護対応があるわけではなく、保健だよりをつくったりしている時間がほとんど。あまりのギャップに「仕事ってこんなに暇でいいんだっけ?」と思い(笑)、「私、保育スタッフにも入りますよ!」と言って、子どもたちと遊ぶようになりました。

そのスクールでは、外国人と日本人の先生が2名体制で担任をしていたのですが、その後私は、日本人担任として2歳児クラスを任されるように。子どもたちと一緒にいる時間は、ただただ楽しかったですね。

中3で夜逃げ、2年間のホームレス生活。36歳で「こども万博」を創設し、9.5万人を動員した元看護師の話。
子どもたちと過ごす手塚さん(写真は自宅での様子)

──スクールナース時代に、子どもと過ごす楽しさを実感されたんですね。それがどんなふうに「こども万博」の創設につながっていくのでしょうか?

3人目が生まれて、東京の2DKのマンションが手狭になりました。近隣のマンションに引っ越そうにも、価格的に手が出ず、かといって東京郊外は通勤に時間がかかりすぎてしまう。

「じゃあどうせなら、縁もゆかりもない場所へ行ってみよう!」そう思い、2018年、神戸の3階建ての一戸建てに家族で引っ越しました。スクールナースの仕事は、引っ越しを機に退職。何かのときには、どこに住んでも看護師の仕事はあるだろうと思い、新しい道を歩み始めたんです。娘たちは5歳、3歳、0歳でした。

でも引っ越して1週間もすると、娘たちが「どうして神戸では誰もうちに来ないの?」と寂しがるようになって。東京では、毎日のように誰かが遊びに来ていたんです。

そこで、娘の幼稚園のお友達に「いつでも遊びにおいで」と声をかけました。

最初は1〜2人遊びに来るくらいでしたが、次第に7〜8人に。週末も親御さんたちの忙しそうな姿をよく見ていたので、「みんなうちに来る?」と誘ったら、毎週末みんなうちで遊び、ご飯を食べて帰るようになりました。

──毎週末7〜8人!普通はなかなかできないことですよね。

2019年、保護者の方から「毎週子どもを預けるのは申し訳ない。いっそ仕事にしてみてはどうか?」と提案されたんです。

“仕事にする”という発想はなかったので迷いましたが、「本当に仕事になるのか、確かめてみよう」と思い、兵庫県の起業支援制度に応募しました。そうしたら、採択されたんです。

その後、あわてて個人事業主として開業し、放課後や週末に、自宅で子どもたちを預かる事業を始めました。

中3で夜逃げ、2年間のホームレス生活。36歳で「こども万博」を創設し、9.5万人を動員した元看護師の話。
神戸の自宅で、子どもたちと体験学習をする手塚さん

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