「勝ったら江川、負けたら俺たちのせいか」
県内で江川と対戦した何人かの元高校球児たちに話を聞いたが、江川は凄い、ナンバーワンピッチャーだと誰もが認めはするが、江川は打てないという表現をする者がひとりもいなかった。この時代、栃木県内の高校球児たちは“江川を打つ”という一心だけで野球をやっていた。
半世紀経った今でも潜在意識の中で“江川を打つ”が刷り込まれている。たとえ何十年経とうともそうした意地と誇りが男たちの今を支えている。
作新のチャンスは三回、五回に訪れ、八回には無死満塁であったが後続が倒れ無得点。絶好のチャンスをあっけなく不意にする。観客から容赦のないヤジが飛ぶ。
「おいおい、江川を助けてやれよ」「江川のノーヒットノーランをフイにするのか、打ってやれよ〜」
作新ベンチ内で重苦しい空気が流れる。
「打てないのは全部俺たちのせいなのか」、「勝ったら江川、負けたら俺たちのせいか」
三年生のレギュラー陣は帽子で顔を隠しながらも不甲斐ないヤジに反応し苛立った。バラバラになりかけている。作新の渡辺富雄監督、山本理部長は頼みの綱はもはや江川しかいないと思った。
十回裏、小山の攻撃。ここまでノーヒットノーラン。簡単に二死となりこの回も三者凡退だと諦めかけた時、三番打者鈴木一夫が「ガキッ!」鈍い金属音を残してセンター前にふらふらっと落ちるテキサスヒットを打つ。
遂に、遂に出た。ただのヒットではない。江川が今大会37イニング目にして初めて、さらにこの夏初めて打たれたヒットだ。実に413球目だった。このヒットにより小山ベンチは蜂の巣を突いたように盛り上がり、スタンドでは嬌声やらため息やらそこらじゅうから落胆の声が漏れた。
この灼熱の太陽の下、江川が投げる度に皆が夢を感じていた。やがて江川卓に夢を乗せていた。思いつきで酔っていたわけではない、江川という巨星が現れたせいだ。そう信じ、人々は魔法にかかったように狂乱する。
そして、江川は一本もヒットを打たれずに甲子園に行くのだと誰もが祈っていた時に、鈍い金属音がシグナルとなって突然意味不明にも現実に引き戻された。まさに白日夢から醒めた瞬間でもあった。
「よーし、打てる打てるぞ!」小山ベンチは湧いた。この勢いが次の回に繋がる。
「笑い話みたいですけど、バッターがバットを縦にしたんです」
そして十一回裏、小山の攻撃。先頭打者の四番金久保は少し詰まったが力で持っていきセンター前ヒット。
「絶対江川に勝ってやる!」
積年の恨みではないが、勝利への飽くなき執念が金久保をかりたてて打ったヒットだ。栃木県ナンバーワンキャッチャーの意地を見せた。
この回が勝負とみた小山の小林松三郎監督は、五番の中川道雄に送りバントのサインを出す。だが、中川は2球続けてカーブをバント空振り。これでツーナッシング
「やべ〜バットに当たらねえ」
焦燥感に満ちた中川を見て小林監督は“打て!”の強行サインに変更。
「なんとかしなきゃ」必死の思いで中川はベースに思い切りかぶさった。なりふりかまってはいられない。デッドボール狙いだ。
必死の形相で構える中川はインコースに当たるつもりで待っていた。中川の気迫に押されたのか江川はアウトコースに投げる。死ぬ気で食らいつくしかない中川は外寄りストレートを合わせるかようにポンッとバットを出しライト前に転がった。妄執が実ったヒットだ。
これで無死一、二塁。次打者がバントで送り一死二、三塁。ここで作新バッテリーはスクイズを警戒しつつも、ストレートで様子を見てまずは1ストライク。
作新ベンチはスクイズを警戒し外せのサインを出す。通常は1ストライクの場合、スクイズを警戒して大きく外すのが高校野球の定石。この時なぜか作新キャッチャーはカーブのサインと勘違いしてしまった。
江川はサインに頷き、セットポジションから投球モーションに入る。
「スクイズだ、外せ!」
作新山本部長が大きな声で叫ぶ。だが遅かった。江川が投げた渾身のカーブをバッターはスクイズ。投手前に絶妙な形で転がし、江川はマウンドから脱兎のごとく駆け下りボールを処理しようとしたその時、足を土にとられて滑り、尻餅をついてしまった。
三塁走者金久保は悠々ホームインし、泥だらけになりながら飛び上がって大粒の涙を流した。他の小山ナインも涙、涙、涙の泥だらけでクシャクシャの顔であった。
江川もこのシーンのことは、はっきりと覚えていた。
「ノーヒットノーラン、完全試合、ノーヒットノーランで四試合目十回2アウトまでノーヒットノーラン。そこから2本ヒットを打たれて、次の回も先頭打者にヒット打たれ、送りバントで二、三塁になった。
ベンチは〝外せ〟っていうサインだったらしいんですけど、キャッチャーがカーブのサインと思われたみたいで、カーブを投げたんです。縦に曲がるカーブでしたから、笑い話みたいですけど、バッターがバットを縦にしたんです。ウソみたいなんですけど(笑)。
ボールを捕って尻もちをついたんじゃなくて、捕って投げようとしたんですけどヒジがついて投げられなかったんです。次の日の新聞に〝江川尻もちついた〟と出たんですけど、横になりながら投げようとしたんです。それができなかった。練習してなかったんで(笑)」
延長十一回、0対1の作新サヨナラ負け。江川が投げた105球目は、まさに作新と小山の明暗を分ける1球だった。
後年、小山の小林監督は教え子たちこう語った。
「高校生じゃ、江川の球を打てるわけがねえ、ありゃ打てねえ」
文/松永多佳倫 写真/共同通信社

