
「最近、あれ、それ、といった代名詞が増えてきた」「言いたい言葉がすぐに出てこない」――。
こうした日常のささいな「言葉の詰まり」に、認知症が始まってるかもと冗談めかして言ったことのある人は多いかもしれません。
しかし、実際これは馬鹿にできない兆候となるようです。
イギリスのカーディフ大学(Cardiff University)のメロディ・パティソン(Melody Pattison)氏ら研究チームは、英国の著名な作家テリー・プラチェット(Terry Pratchett)氏が残した膨大な著作を最新の言語解析を用いて調査したところ、彼が認知症診断を受ける約10年も前から、その予兆が文章の中に現れていたことが判明したのです。
プラチェット氏は、2007年に認知症の一種である「後部皮質萎縮症(Posterior Cortical Atrophy: PCA)」と診断されています。
私たちが無意識に選んでいる言葉の裏側では、一体何が起きているのでしょうか。
この研究の詳細は、2026年1月16日付で科学雑誌『Brain Sciences』に掲載されています。
目次
- 物語の背後に隠された「言葉の足跡」を辿る
- 診断の10年前から現れた「形容詞」の低下
物語の背後に隠された「言葉の足跡」を辿る
テリー・プラチェット氏は、累計発行部数が1億部を超えるファンタジー小説「ディスクワールド(Discworld)」シリーズの著者として知られる、イギリスを代表する作家の一人です。
彼は2007年に「後部皮質萎縮症(PCA)」という病気の診断を受けました。
この病気はアルツハイマー病に関連する稀な形態で、主に脳の後方に影響を与え、視覚的な認識や空間把握、さらには言葉を思い出す力に困難が生じるのが特徴です。
プラチェット氏はPCAと診断された後も、2015年に亡くなるまで精力的に執筆活動を続けていました。
そこで研究チームは、彼が診断の前後で書き残した膨大な小説の中に、認知機能の変化を示す「手がかり」が隠されているのではないかと考え調査を行うことにしたのです。
これまで、認知症の初期サインを捉えることは非常に難しいとされてきました。
しかし、もし一人の人物が数十年にわたって書き続けた記録があれば、その人の「本来の言葉の使い方」と比較することで、ごくわずかな変化を見つけ出せるかもしれません。
研究チームは、人気シリーズ『ディスクワールド』全41作のうち、条件をそろえた33作品を分析対象にしました
児童向け作品など、読者層や文体が大きく変わり得るものは除外し、できるだけ比較しやすい形に整えています。
分析には「スケッチ・エンジン(SketchEngine)」という、膨大な文章データを処理するプラットフォームが使用され、文章を品詞ごとに分け、名詞・動詞・形容詞・副詞がどれくらい多様に使われているかを調べました。(名詞は物や人の名前、動詞は動き、形容詞は性質や状態、副詞は動き方や程度を表す言葉)
研究の狙いは、プラチェット氏が書いた小説の中で、語彙の使い方が時間とともにどう変化したかを定量的に確かめることです。
語彙の多様性を表す指標として使われたのが、「タイプ・トークン比:TTR(Type–Token Ratio)」です。
TTRは、文章中で使われた単語の総数(トークン)に対して、異なる単語の種類(タイプ)がどれだけあるかを見る指標で、同じ言葉を繰り返すほど値が下がる性質があります。
ただしTTRは、文章が長いほど値が下がりやすいという弱点があります。
そこで研究チームは、文章を一定の長さごとに区切りながら平均を取る「移動平均タイプ・トークン比:MATTR(Moving-Average Type–Token Ratio)」も用い、文章の長さの影響を抑えた形式でも検証しました。
比較は大きく2段階で行われました。
1つ目は、2007年の診断以前の作品群と、診断後の作品群を比べる方法です。
2つ目は、時間の流れの中で「どこから変化が目立ち始めるのか」を統計的に推定する方法です。
この後者では、ある指標が診断前後をどれくらい区別できるかを評価し、区別に役立つしきい値を求めたうえで、その値を初めて下回った作品がどれかを確認しています。
診断の10年前から現れた「形容詞」の低下
解析の結果、プラチェット氏の文章には、診断よりもはるか以前から変化が生じていたことが分かりました。
最も顕著だったのは、診断後に書かれた作品では「形容詞(adjectives)」と「名詞(nouns)」のバリエーションが有意に減少しており、シンプルな言葉が繰り返し使われる傾向になっていたことです。
しかし、使われている単語の種類は減っていましたが、小説1冊あたりの総単語数自体は増加する傾向にありました。
この現象は、何を意味しているのでしょうか。
研究チームは、これが適切な言葉がとっさに思い浮かばなくなる「喚語(Word retrieval)」の困難を、文章を長く書くことで補おうとした結果ではないかと考察しています。
そして解析によって特定された「変化の転換点」は、1998年発表の第22作『The Last Continent』でした。
これは、彼が正式に認知症の診断を受ける9年7ヶ月も前の作品です。
この作品を境に、彼の「形容詞」の多様性は、解析で示された一定の基準値を下回り始めました。
また興味深いことに、動詞や副詞では、同じような明確な差は示されませんでした。
この違いは、文章全体が一様に単純になったというより、言葉の種類によって変化の出方が異なる可能性を示しています。
この研究の意義は、言葉の変化が「老化」によるものか、それとも「病気」によるものかを区別できる可能性を示した点にあります。
過去の研究では、健康な作家は80代になっても高い語彙多様性を維持できることが示されており、プラチェット氏に見られた急激な変化は、病気特有のサインである可能性が高いと考えられます。(作家P.D.ジェイムズは80代後半になっても言語の多様性が安定して維持されていたことが示されている(Le et al.,2011))
実際に、アイリス・マードック(Iris Murdoch)やアガサ・クリスティ(Agatha Christie)といった他の著名な作家の研究でも、認知症診断の数年前から同様の語彙の単純化が見られたという報告があります。
ただし、この結果を解釈する上では、いくつかの注意点もあります。
今回の解析はあくまでプラチェット氏個人の文体に合わせたものです。作家によって元々の語彙力や作風は異なるため、ここで得られた「形容詞の多様性」という基準値をそのまま他の作家や一般の人に当てはめて認知症を判定することはできません。
また、作家が自身の体調を自覚して意識的に文体を変えた可能性や、編集者の介入といった外部要因も完全には否定できないと研究者は述べています。
しかし、自分自身の過去の文章を「基準」として、その変化を長期間モニタリングする手法は、将来的に非常に強力な早期発見の補助ツールになる可能性があります。
もしかしたら将来、SNSや日記をAIが分析し、自分では気づかない変化をそっと教えてくれる日が来るのかもしれません。
元論文
Detecting Dementia Using Lexical Analysis: Terry Pratchett’s Discworld Tells a More Personal Story
https://doi.org/10.3390/brainsci16010094
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部

