’90年、アニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディング曲として社会現象的な人気を博した『おどるポンポコリン』。これを歌ったB.B.クィーンズのメンバーとして歌手デビューを果たした宇徳敬子さん。その後はMi-Keのメインボーカル、さらにはソロとして活躍。その音楽活動のスタートは、意外にも東京・原宿でのスカウトだった。〈前後編の前編〉
原宿のスカウトマンが横浜までついてきていた
――今年ソロデビュー33周年となりますが、歌手となるきっかけは原宿でスカウトされたことだとお聞きしました。
宇徳敬子(以下、同) 短大の夏休みに、友達と原宿に買い物に来ていて、ラフォーレ原宿からでた瞬間、何人かのスカウトマンの方に名刺をいただいたんです。
その時は、これがウワサのスカウトか!怪しい、騙されないようにしなきゃって思っていました。
その後、親戚のいる横浜の家に向かったんですが、スカウトマンが横浜まで私を追いかけて来ていたらしく…。親戚から、『どうやらあなたの事を探してるみたいよ』と言われて。実はその時、3人がかりで私を探してくれていたみたいなんです。
――大人3人で探し回るほどの熱意…すごいですね。
所属タレントの一覧を見せられて『ちゃんとした事務所なので、社長とお話ししてもらえませんか?』と言われました。
今しかできない選択肢だなと思いましたし、スカウトの方がとても丁寧に説明してくださったのと叔母の後押しもあって、スターダストプロモーションに所属することになりました。まずオーディションを受けてみよう、と。そこが全ての始まりでした。
『おどるポンポコリン』が社会現象に
――そこから歌手デビューまでの道のりを教えて下さい。
歌手への憧れはありましたが、『歌手になりたい』とは言えなかったんです。当時は、同じ事務所に歌手の方があまりいらっしゃらなかった事もあり、言い出せなかったのです。
事務所の方からは、広告やCMのオーディションをすすめていただきました。最初に受けた広告で1次審査が通ったと連絡があり、そこからいくつかのオーディションを受ける事になるのですが、スタイリッシュなトップモデルの方々が集まっている中、私はまだ学生で、とても緊張してオーディションに臨んでいたことを今でも覚えています。
事務所の方も、誰もが受かると思っていなかった三井銀行(現:三井住友銀行)のイメージガールに決まった時は、びっくりしましたし嬉しかったですね。そこから、雑誌のCanCamや、三菱カラープリントの表紙など、モデルとして活動させていただいていました。
――モデル活動のあと、どのように歌手デビューに繋がったのでしょうか。
記憶を辿ると事務所のパンフ用宣材写真を撮る為、合宿に参加したんです。撮影の合間は自由行動でスポーツをしたり、夜はバーベキューにカラオケ大会やピアノがあったのでピアノを弾いたり、誰かの歌声にハモったりと。
そこで、社長が「宇徳、歌いいんじゃない?」と、思っていただいたのがきっかけで、歌手のオーディションに来ないかと連絡があり、オーディションを受けることになりました。それが、B.B.クィーンズのメンバーのオーディションでした。
――カラオケ大会が歌手デビューのきっかけだったんですね。芸能界に入ることについては、ご両親から反対はありませんでしたか。
幼い頃からヤマハ音楽教室に通っていたので、「将来は自宅で幼児教室的な子供たちと関われる仕事をやりたい」なんて、家族には話をしていました。それが突然、東京に行くと言ったものだから、おそらく母はがっかりしたと思います。
父は普段から怒ることもない、温和な人だったので自然と芸能界入りを受け入れてくれて。私は歌手になる夢を描いていましたが、もし駄目でも保育士の資格と幼稚園教諭の免許を取得していたので、芸能界入りへのこだわりはなかったです。
――宇徳さんはアニメ・ちびまる子ちゃんのエンディング曲を担当したバンド・B.B.クィーンズではコーラスとして活動されていらっしゃいましたね。歌番組に出演されていた当時、バックで踊られていた綺麗なお姉さん方の存在もとても印象的でした。
「真剣に、音楽でとことん遊ぼう!」をモットーとしたバンドだったんですが、ちびまる子ちゃんもアニメ化したばかりの頃だったので、『おどるポンポコリン』があそこまでの社会現象になるとは、当時関わった皆さんが誰も思っていなかったんじゃないかと思います。
私も、まさか踊りがあるとは想像もしていなかったのですが、デビュー当時は、レコーディングやTV出演で、ほぼ毎日スケジュールが埋まっていきました。
TV出演のためにWinkさんの振り付けも担当されていた先生と振り付けを練習しながら、紅白が決まって、レコード大賞と数々の賞レースなど、夢のような怒涛の日々を過ごしていました。

