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【豊臣兄弟!トリビア】秀吉も驚愕! 豊臣秀長が石垣に刻んだ「豊臣支配」の“恐るべき演出”

【豊臣兄弟!トリビア】秀吉も驚愕! 豊臣秀長が石垣に刻んだ「豊臣支配」の“恐るべき演出”

豊臣秀長

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』が絶好調だ。

仲野太賀演じる豊臣秀長が、兄・秀吉の野望を冷静沈着な実務能力で支え、戦国の荒波を乗り越えていく姿が人気呼んでいるが、この秀長の働きぶりと兄・秀吉との睦まじい上下関係が、現代のビジネスパーソンの絶大な支持を集めているのだ。

実務能力に長けた秀長の逸話は数多いが、その中でも彼の辣腕ぶりと恐るべき大胆さを伝えるのが、居城とした大和郡山城(奈良県)の佇まいだろう。

秀吉が関白となったのちに従二位、権大納言に任ぜられた秀長は、筒井順慶が築城したこの城に1585年に入城。官位に見合う城にするため大規模な改修工事を行ったが、堅牢な石垣の中には本来なら拝むべきはずの「地蔵」が、無惨にも逆さまの状態で埋め込まれている。さらに目を凝らせば、石垣のあちこちには五輪塔や墓石、石仏などが至る所に「資材」として転用されているのである。

現代人もあ然するこの光景は、戦に明け暮れた戦国時代の資材不足、工期不足が原因だった側面も否めないが、一部の歴史学者の間では「これは単なる資材不足の結果ではない」との声も上がっているほどなのだ。

「戦国期の築城において『転用石(てんようせき=他の目的で使われていた石を石垣に転用)』は珍しくないが、郡山城ほど露骨に、かつ大量に石仏を使用したのは異例中の異例。そこには、短期間で城を完成させるという軍事的要請を超えた、ある種の“政治的演出”が透けて見えるとも言われています」(戦国遺構や城郭に詳しい歴史評論家)

当時の大和国は、興福寺や東大寺といった巨大な寺社勢力が数百年間にわたり「神仏の加護」を盾に支配してきた特殊な土地だった。そこへ乗り込んだ秀長にとって、地蔵や墓石を石垣の土台に据えるという行為は、旧勢力の権威を物理的に踏みにじり、「これからは豊臣がこの地を支配する」という事実を視覚的に見せつけるデモンストレーションだったとも推測されているのだ。

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石垣に刻まれた「知恵」と「覚悟」

さかさ地蔵

また、歴史作家はこう分析する。

「秀長は、兄・秀吉とは対照的に極めて冷徹なリアリストだった。聖域の象徴をただの石材として扱うことで、大和の民衆に対し、神仏への過度な依存を断ち切らせる狙いがあったのだろう。つまり、大和・紀伊・和泉あわせて百万石の太守となった秀長の覚悟と、支配者としての胆力がこの石垣には凝縮されているのです」

ちなみに、秀長の豪胆さを伝える行いはこれだけではない。かつて平城京の正門として威容を誇った「羅城門」の巨大な礎石までも、天守台の石垣に組み込ませたという。

古都の栄華の象徴さえも、豊臣政権の秩序の一部に取り込む。この徹底した合理主義こそが、秀長を“日本一の補佐役”たらしめた源泉だった。

だが、秀長は決して冷酷なだけの独裁者ではなかった。

居城の改修で圧倒的な武威と合理性を示す一方で、内政では領地内の商業保護政策を打ち出し、戦火で疲弊した民衆を慈しんだ。この“飴と鞭”の使い分けこそが、一筋縄ではいかない大和の国衆を短期間で心服させたのである。

「石垣は威圧、町造りは慈愛。このハイブリッドな統治スタイルこそが秀長の真骨頂。彼はまさに天下の副総理に相応しい、稀代のマルチタスクプレイヤーだったのです」(前出・歴史評論家)

大和郡山城の石垣――それは、豊臣の天下を盤石にするため泥を被り続けた豊臣秀長の、「知恵」と「覚悟」が刻まれた遺物なのである。

配信元: 週刊実話WEB

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