【帝銀事件の闇・前編】
ジャーナリストの岡本萬尋氏が、事件の謎に迫る「シリーズ戦後未解決事件史」。第7弾は「下山事件」と並ぶ戦後未解決事件の最大の謎の一つとも呼ばれる、「帝銀事件」(1948年発生)だ。発生から78年が経過した今、その深い闇に再びメスを入れる(全2回中の1回目)。
凶器は本当に青酸カリだったのか
男が差し出した謎の毒薬。12人もの命を奪った凶器の正体は、本当に青酸カリだったのか、そして真犯人は平沢貞通元死刑囚なのか——。
2009年冬、東京都内のライブハウスであるトークイベントが開かれた。俎上に載せられたのは「帝銀事件」。敗戦直後の日本を震撼させ、今なお謎に包まれている大量毒殺だ。
幾つもの貴重な証言により、戦後史に横たわる深い闇に一筋の光が差し込んだような一夜だった。一体何が語られたのか。当時の取材ノートから紐解いていく。
帝銀事件が起きたのは、日本がGHQ(連合国軍総司令部)占領下にあった1948(昭和23)年1月26日。午後3時過ぎ、「東京都防疫班」の腕章をつけ「厚生省技官」を名乗る白衣姿の男が豊島区内の帝国銀行(三井住友銀行の前身)椎名町支店に現れ「近所で集団赤痢が発生したので予防に来た」と告げた。閉店直後の銀行で行員たちが集められた。
男は2種類の液体を示し、第1液は強い薬のため一気に飲み、第2液は中和薬なので1分後に飲むよう指示した。それに従った行員ら16人は相次いで倒れ12人が絶命。男は約16万4000円の現金と額面1万7450円の小切手を奪い立ち去った。
同年8月21日、捜査本部はテンペラ画家の平沢貞通(当時56歳)を逮捕。平沢は取り調べ段階では犯行を自供したが初公判で「自白は精神的拷問によるもの」と全面否認。しかし’50年7月、東京地裁は死刑判決を下し’55年4月には最高裁が上告を棄却、平沢の死刑が確定した。
その後も平沢は一貫して無罪を主張するが計18次にわたる再審請求と5度の恩赦出願はいずれも棄却。一方で死刑確定後32年間、延べ35人の法務大臣は誰一人として刑執行を命じず平沢は’87(昭和62)年5月10日、東京・八王子医療刑務所で獄死した(享年95)。確定死刑囚としての獄中生活は1万4000日を超えた。
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19次再審請求では供述&筆跡鑑定が揺らぐ新証拠も
平沢の三回忌となる’89年5月、養子の武彦氏が東京高裁に申し立てた第19次再審請求(死後再審)には幾つもの新証拠が出されたが審理は長期化。判決に至らぬまま武彦氏の死去によって2013年に打ち切りに。別の遺族が請求人となり起こされた20次請求も昨年1月、やはり請求人の死亡で終了した。
本人死亡後の死後再審は配偶者、直系の親族や兄弟姉妹しか請求できず弁護団は現在、再度の請求を模索しているものの新たな申立人が見つかるメドは立っていない。
発生から今月で’78年経ち、時の壁が立ちはだかる帝銀事件。だが今なお平沢犯行説への疑問の声は根強く、帝銀事件は翌’49年夏の下山・三鷹・松川事件などとともに占領下の大きな謎として残っている。
冒頭のトークイベント「帝銀事件と冤罪の闇」が開かれたのは19次再審請求が継続中だった2009年1月26日。事件から’61年となるこの日、武彦氏のほか事件の関係者や研究者が一堂に会し平沢犯行説にさまざまな側面から疑義が示された。
関係者が相次いで世を去り再審請求の維持が困難となっている現在から振り返れば、重層的に事件を再検証する事実上、最後の機会だったと言える。
連続ピストル射殺事件の永山則夫や映画『ゆきゆきて神軍』奥崎謙三の弁護人も務めた反骨の弁護士、遠藤誠氏(‘02年死去)が主任弁護人を担った第19次再審請求。弁護団は数多くの新証拠を掘り起こした。
その中には平沢が犯行を自白した56歳時には重い脳の病である「コルサコフ病」だったと推測され、供述の信用性は到底認められないとする鑑定書や、有罪の決め手とされた3通の自白調書末尾の署名がいずれも平沢と異なるとする筆跡鑑定など、事実とすれば死刑判決が根底から揺らぐ内容も少なくなかった。
そして最大の謎が犯行に使用された毒物の特定だ。死刑判決は市販の青酸カリだとしたが、異論は消えず19次請求でも最重要の争点となった。
【帝銀事件の闇・後編】に続く
取材・文/岡本萬尋
