【帝銀事件の闇・後編】
ジャーナリストの岡本萬尋氏が、事件の謎に迫る「シリーズ戦後未解決事件史」。第7弾は「下山事件」と並ぶ戦後未解決事件の最大の謎の一つとも呼ばれる、「帝銀事件」(1948年発生)だ。発生から78年が経過した今、その深い闇に再びメスを入れる(全2回中の2回目)。
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毒を熟知した周到な殺害法
犯人が行員らを前に赤痢予防薬と称して提示した2種類の液体。生存者の証言を総合すると犯人は「必ず順番に服用」するよう指示、第1液については「歯のエナメル質を保護するため」として舌を出して飲むように命じ、自分でやり方の手本を見せた。
犯人自らスポイトで16人分の湯呑みに取り分けた第1液は、のどが焼けるような強い刺激があったというが、誰も異常を訴えてはいない。
そして1分後、犯人は「水のような」無味の第2液を飲ませている。全員が苦しみ始めたのは、この後のことだという。口をゆすごうと洗面所や台所に行こうとする途中などに相次いで倒れ、早い人は数分後に死亡。犠牲者の中には住み込みの従業員一家の子供も含まれている。
しかし死刑判決が規定した青酸カリは即効性の劇薬で、絶命までの数分間の空白と大きな齟齬が生じる。’09年のイベントで薬物学者の遠藤浩良・帝京大学名誉教授は、青酸カリの即効性について「それを超えると毒性を発現する『域値』と(体内に入れば)100%死ぬ量との間がものすごく狭く、非常に急勾配で毒性が上がっていく。(帝銀事件で)助かった人が出ているのは、通常の青酸カリによる毒殺では起こり得ない」と明言。
毒性発現の遅延は致死量ぎりぎりの青酸カリを使ったため、という判決支持の見方があることに対しては「理論的にはあり得るが、実際に量り取ってそんなにうまくいくことは専門家でも不可能だ」と言下に否定した。
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特殊な毒物を一介の画家が取り扱えたのか!?
遠藤氏は1996年に東京高裁に提出した意見書で、被害者たちが死に至った経過を考えれば、毒物は体内に入って一定時間後に徐々に青酸を発生する「いわば遅効性の青酸化合物」と指摘。第2液は第1液に分解の条件を与える物質だったと考えるべきとしている。
‘09年のイベントでも「通常の青酸カリウム・ナトリウムでは第1液、第2液と悠長なことをやっていられない。(そうした特殊な毒物を使いこなすのは)化学に関して全く素人の、一介の画家ができる仕事ではない。判決は間違っており、平沢が犯人であるはずがないと専門家の一人として確信を持つ」と言明。
その上で真犯人像を「戦争中に青酸を使った殺人を綿密に計画し、実験をし、その手立てを理解した人間でなければできない」と旧日本軍関係者、あるいは米軍関係者ではないかと推測した。
遠藤氏の指摘を裏付けるように、捜査陣もある時点まで毒物の特殊性と旧日本軍との関わりを最重視していた形跡がある。
事件発生当時の警視庁捜査一課、甲斐文助係長が遺した手記からは捜査本部が当初、犯人は毒物に精通した人物と考え旧軍関係者に捜査を絞り込んでいた様子が読み取れるのだ。
そして同手記には戦時中、謀略兵器開発を行っていたとされる陸軍第9技術研究所(通称「登戸研究所」)の技術少佐だった人物が、犯行に使われた毒物は「青酸ニトリール」(アセトンシアンヒドリン)ではないかと指摘する記述がある。
青酸ニトリールは登戸研究所が極秘裏に研究・開発したという謀殺用の有機青酸化合物で、体内に入り3~8分間で人を殺害する特殊な遅効性毒物とされる。帝銀事件の時間経過とも符合するが、元少佐は裁判では一転して「毒物は青酸カリ」だと供述を翻した。
しかし’09年のイベントでジャーナリストの近藤昭二氏は「(事前の)打ち合わせで検事から『あれは青酸カリにしておいてくれ』と言われた」とする、生前の元少佐から得た口裏合わせとも取れる証言を紹介した。
