「ラストサムライ」ならぬ「ラストニンジャ」を知っているだろうか。ペリーの黒船に忍び込み、パンを盗み出した忍者がいる。伊賀の沢村保祐、通称は甚三郎で、津・藤堂藩の無足人だったという。無足人とは苗字帯刀を許され、士分や郷士より身分は上だった。
だが江戸も末期となれば、忍者は無用の長物だ。嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー提督が日本とアメリカの通商を求め、神奈川県浦賀沖に来航したことで、事態は一変する。世間は当然ながら、大騒ぎに。
「泰平の ねむりをさます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で 夜もねられず」(上喜撰という上質の茶を飲むと夜眠れなくなるように、4隻の蒸気船により安らかな眠りが妨げられ、不安で仕方がない、という意味)」
こんな狂歌が流行したのだった。
庶民だけでなく、幕府も大騒動に見舞われた。当時の幕府の責任者、老中首座の阿部正弘は開国の是非を外様大名や旗本に求めたが、情報があまりに少なく、妙案や結論など出るはずがない。そこで幕府から藩主の藤堂高猷を通じ、沢村甚三郎に諜報活動の命令が下ったのである。
甚三郎は闇夜に紛れて黒船に乗り込んだわけではない。枯れ木も山の賑わい作戦だ。幕府側はペリーと交渉する際に約60人の関係者を送り込んだが、その中に甚三郎が潜り込んだ。相手も日本人など見たことがなく、誰が誰だか区別はつくはずもない。それを利用し、堂々と黒船に乗り込んだのだ。
甚三郎はそこで乗組員からパン2個、タバコ2本、ろうそく2本に2枚のメモをくすねて持ち帰った。
そのメモには重要機密は書かれておらず、当時のヨーロッパで流行った「イギリス女はベッドが上手、フランス女は料理が上手、オランダ女は家政(家事)が上手」といったことや、哲学的な格言が書かれていたらしい。重要機密ではなくとも、当時の外国人を知る一級の資料だったことは間違いない。
パンの行方だが、2個のうち1個は藩主の息子・高潔から「くれ」と言われて差し出し、もう1個は保管したとされている。そのパンの味はいったい、どんなものだったのか。「ラストニンジャ」の諜報活動の成果が気になるところである。
(道嶋慶)

