「今、ちゃんと呼吸できている気がするの」

(写真:iStock)
「私ね、今、ちゃんと呼吸できている気がするの」
優梨愛は退屈そうな顔をする奈江に言い聞かすような口調で告げた。
「へぇ…」
ふと、港区にいた頃の優梨愛を思い返せば、彼女はどの場所にいても居心地が悪そうだった。
その少々不機嫌な様子が、逆に男性たちの興味をひいていたところもある。
赤ちゃんに対する心からの微笑みと、まばらな星空を正直に綺麗だと言える純粋さ。もしかしたら、あの時の優梨愛より、目の前にいる方が本当の優梨愛なのかもしれない。今日、彼女が吐いていた大きな吐息は、ため息ではなく、安堵の息なのか。きっと、このなにもない街こそが、彼女にとって檻の外の自由なのだ。
もう一生会わないだろう
15分ほどでバスは来た。一緒に乗り込んで、駅へと向かう。駅まで10分ほどの乗車だったが、肩を並べて、無言で同じシートに座る。
「そのモンクレール、あったかい?」
絞り出すように、優梨愛から尋ねられる。
「ふつう。デザインは気に入っているんだけれどね」
奈江は目を合わせずに答えた。

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「そうなんだ。私が初めて着た時は、世の中にこんなに暖かいダウンあるんだって感動したのに」
「これは、人に譲ってもらったヤツだから。年季が入っていると、湿気とかで品質が下がると聞いたことがあるよ」
「あ…やっぱり」
そしてまた彼女は口をつぐんだ。
「あ、やっぱり」の意味はよくわからなかったけど、聞かないことにしておく。奈江は優梨愛にいらぬ気を使わせているかもしれないと思った。
「あげようか。彼氏に新しいのをおねだりするから」
「いい。私はユニクロで十分よ。ユニクロでしあわせ」
首都圏郊外の一般家庭の一人娘で、小さなころから愛されて育ったという優梨愛。恵まれていた分、幸せの感性も敏感なのだろうか。
優梨愛に、もう一生会わないだろうという予感がした。同時に、彼女の感覚を「うらやましい」と思いはじめている自分がいる。
