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【豊臣兄弟!トリビア】残虐と恐れられた織田信長が敵将の髑髏を盃にした“本当の理由”

【豊臣兄弟!トリビア】残虐と恐れられた織田信長が敵将の髑髏を盃にした“本当の理由”

織田信長

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』が好評を博しているが、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)、小一郎(秀長)が仕えた戦国時代の風雲児・織田信長は、自らが自害に追いやった敵将の髑髏(どくろ)を盃にして、上機嫌で酒を飲み交わしたという。だが、信長がこの残虐な宴を行った背景には、実は大きな理由があった──。

漆塗りと金粉がまぶされた義弟の頭蓋骨

永禄7年(1564年)、美濃国(現在の岐阜県)の斎藤家の制圧を狙っていた織田信長は、近隣の北近江(現在の滋賀県)を治めていた浅井家に同盟を打診。信長と手を組めば一族の繁栄につながると判断した浅井家3代当主・浅井長政は、信長の妹・市と政略結婚し、同盟が締結された。

しかし、元亀元年(1570年)、浅井家と懇意だった越前国(現在の福井県)の朝倉家を織田軍が攻撃するという事態が発生する。信長は長政と同盟を結ぶ際に、朝倉家に対する不戦条約を承諾しており、裏切る形で攻撃を行ったことになる。

これを受けて、朝倉家との義理を重んじていた長政は、信長と対立することになる。同年6月に行われた姉川の戦いで、浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗北したことで浅井家は勢力を失い、織田軍に北近江を侵攻され、3年後に滅亡した。

信長側から再三降伏を求める進言があったにもかかわらず、浅井家前当主の浅井久政は自害を選択。その翌日に父のあとを追う形で長政も自害したのだ。繁栄よりも義理を選んだ武将は、29歳の若さで生涯を終えた。

江戸時代中期に作成された浅井家の興亡を記した史料『浅井三代記』によると、織田軍が浅井家と朝倉家を討ち滅ぼした翌年の元旦、岐阜城で家臣と共に宴を開いた信長は、黒塗りの箱を3つ持ってくるように要求したという。

箱の蓋が開けられると、そこには「箔濃(はくだみ)」と漆塗りをした上で金粉がまぶされた髑髏が入っており、それは浅井長政・久政親子と朝倉家当主だった朝倉義景の頭蓋骨を加工したものであった。信長は、その髑髏に酒を注いで家臣と共に飲み交わしたと記述されている。

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根底にあった贖罪の念

『浅井三代記』は江戸時代のベストセラーであり、髑髏の盃のエピソードは信長が苛烈で残虐であったというイメージを多くの人々に植えつける結果となった。現在でも史実として語り継がれることが多い逸話であるが、これは創作であるという説も存在する。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』によると、信長は食事に対して節制を心がけており、酒を飲むことはほとんどなかったという。フロイスは信長と親交があった人物であり、『日本史』は信長の死後から長い年月が経過して作成された『浅井三代記』よりも信ぴょう性が高い史料といえる。そのため、家臣と共に酒を飲み交わすことはありえないというのだ。

ただ、信長が髑髏を盃にしたのは元旦とされているため、新年を祝賀する儀式という意味合いで、普段は口にしない酒を飲んだ可能性は考えられるだろう。

では、もしこの逸話が仮に事実であった場合、なぜ信長はそのような行為をしたのだろうか。ただ戦果を家臣に誇示するためという説もあるが、有力視されている説が「自らが討ち取った敵将を弔うため」というものである。

戦国時代の武将たちには、討ち取った敵将の遺骨を数年間供養することで、成仏させるという風習が存在した。髑髏に装飾が行われていたのは、自らと戦った敵将を讃えるためであり、家臣たちと酒を飲み交わすことで、死者の霊魂が明るい気持ちで成仏できるよう配慮したのだという。

また、自らの裏切りによって妹の結婚相手を自害に追い込んだことに、贖罪の念もあったのかもしれない。

仮に上記の説が真実であった場合、信長は後世のイメージとは裏腹の、敵対者に敬意を払う武士道精神を持った人物であったということになる。

週刊実話増刊『禁断の戦国史』より抜粋

配信元: 週刊実話WEB

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