
今から約100年前、世界は「スペインかぜ(1918年インフルエンザ)」の大流行に揺れていました。
実はその陰で、もう一つの奇妙な病が静かに広がっていたのです。
人を異常な眠気に引き込み、目覚めても体が動かず、言葉も出ない。生きているのに“像”のように固まる人さえいました。
その病気の名前は「嗜眠性脳炎(Encephalitis lethargica)」。
推定で100万人以上が罹患し、50万人以上が死亡したとされるのに、1920年代後半には流行がほぼ途絶え、原因も決着しないまま歴史の影に消えました。
いったい何が起きていたのでしょうか。
目次
- ウィーンで“未知の脳炎”が名づけられた
- 治っても終わらない、原因も決着しない
ウィーンで“未知の脳炎”が名づけられた
嗜眠性脳炎は、1916〜1917年の冬にヨーロッパで目立ち始め、1915年から1926年ごろにかけて世界的流行に至ったとされています。
最初に詳細な報告を行ったのは、ウィーン大学の精神神経科で診療していた神経学者コンスタンティン・フォン・エコノモらです。
患者は髄膜炎、多発性硬化症、せん妄など疑い病名がばらばらでしたが、既知の病気の枠に収まりませんでした。
そこで決め手になったのが、病名にも入った「嗜眠」、つまり強い眠気です。
症状の幅は非常に広く、高熱、のどの痛み、頭痛、強い嗜眠、複視、反応の遅れ、睡眠リズムの逆転などが挙げられています。
重症例では無動性無言のように、意識があるのに動けず話せない状態に近づくこともあります。
さらに異常な眼球運動、筋肉痛や頸部硬直、精神症状なども報告され、子どもでは行動変化が強く出たという記載もあります。
まさに「脳のどこをどう巻き込むか」で顔つきが変わる病だったわけです。
当時の臨床像を語るうえで有名なのが、後年この病の後遺症患者を診た神経学者オリバー・サックスの記述です。
彼は患者が周囲を理解しているのに、椅子に座ったまま動かず、話さず、深い無関心に沈む様子を描写しました。
嗜眠性脳炎は「眠っている」だけではなく、「起きているのに生きている感じが薄れる」ような、奇妙な状態を生むことがあったのです。
治っても終わらない、原因も決着しない
嗜眠性脳炎のもう一つの恐ろしさは、急性期を乗り越えても安心できない点です。
総説では、慢性期にパーキンソニズム(動作緩慢、筋肉のこわばり、安静時の震え、姿勢保持障害)が現れやすいことに加え、睡眠障害、眼球運動の異常、不随意運動、発話や呼吸の異常、精神症状などが目立つとされます。
流行後の数十年では、パーキンソニズムの相当部分が「脳炎後」だった可能性が推定されています。
つまり、流行が去ったあとも、医療現場には“遅れてやってくる影”が長く残りました。
では原因は何だったのか。ここが最大の謎です。
流行時期が1918年インフルエンザと重なるため、当初は両者の関連が強く疑われました。
しかし、近年の整理では「インフルエンザ原因説に懐疑的な文献が優勢」とされる一方、完全に決着したわけではなく、議論が続いています。
また、自己免疫反応の関与を示す研究、あるいは感染症と免疫反応の組み合わせなど、複数の道筋が検討されています。
さらに2012年の研究は、限られた脳組織サンプルの解析から、エンテロウイルスが原因候補になり得るという「証拠」を提示しました。
ただし、これが決定打になって「全員これだった」と確定したわけではありません。
結局、嗜眠性脳炎は「原因不明」の棚に置かれたまま、1920年代後半には流行自体がほぼ消えていきました。
病原体が絶えたのか、診断枠が変わったのか、免疫学的な背景が揺れたのか。理由はまだ断言できません。
消えた病気は、また現れるのか
嗜眠性脳炎は、推定50万人以上の命を奪いながら、原因の確定に至らないまま“自然終息”した稀有な例です。
病気が消えるのは確かに良いことですが、原因が分からないと「なぜ再発しないと言えるのか」も言えません。
100年前の医療では見えなかった手掛かりが、現在の分子生物学や免疫学なら拾える可能性があります。
もし似た症候群が再び現れたとき、私たちが頼れるのは、過去の記録と、今の技術を結びつける冷静さです。
参考文献
Encephalitis Lethargica: The Strange Disease That Killed 500,000 People, And Then Abruptly Disappeared
https://www.iflscience.com/encephalitis-lethargica-the-strange-disease-that-killed-500000-people-and-then-abruptly-disappeared-82511
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

