
海のどこかで響いていたクジラの歌を、私たちはいつから「音」として記録できるようになったのでしょうか。
その答えを塗り替える発見が報告されました。
米マサチューセッツ州にあるウッズホール海洋研究所(WHOI)の研究チームが、現存する中で最古とみられるザトウクジラの録音を特定したのです。
その音源は1949年3月7日、バミューダ近海の大西洋で記録されたものでした。
当時はまだ、研究者がクジラの鳴き声を体系的に識別できる時代ではありませんでした。
つまり、彼らは「何かの音」を録ってはいたものの、それがザトウクジラの歌だとは理解していなかったと考えられます。
目次
- 1949年の海で録られていた「正体不明の音」
- 騒がしくなった海と、音の基準点
1949年の海で録られていた「正体不明の音」
問題の録音は、WHOIのアーカイブ資料をデジタル化する過程で見つかりました。
音が刻まれていたのは「グレイ・オーディグラフ」と呼ばれる事務用の口述記録装置です。
磁気テープではなく、薄いプラスチック製ディスクに音を直接刻み込む方式でした。壊れやすい媒体ですが、今回のディスクは驚くほど良好な状態で保存されていました。
録音当時、調査船R/Vアトランティス号の研究者たちは、アメリカ海軍研究局と協力してソナー試験や爆発音量の測定など、さまざまな音響実験を行っていました。
水中音を記録する技術がようやく実用化され始めた時代であり、海の音の正体についてはほとんど分かっていませんでした。
同じ1949年には、WHOIの科学者ウィリアム・シェヴィルと哺乳類学者バーバラ・ローレンスが、カナダのサグネ川でシロイルカを録音しています。
これは野生の海洋哺乳類の音を特定した最初の録音とされています。
しかし今回見つかったザトウクジラの録音は、それと同時期に、しかもザトウクジラの歌としては最古の保存例である可能性があります。
実際の音声がこちら。音量に注意してご視聴ください。
WHOIの海洋バイオアコースティクス研究者、ラエラ・セイグ氏は「この時期のデータは、ほとんどの場合存在しません」と語ります。
当時は、どの音がどの生物によるものかを確実に判断する技術も知識も十分ではありませんでした。
そのため、多くの録音は失われ、あるいは正しく整理されないまま眠っていたのです。
騒がしくなった海と、音の基準点
この1949年の録音が持つ意味は、単なる歴史的価値にとどまりません。
現在の海は、船舶騒音や産業活動などにより、かつてよりはるかに騒がしくなっています。音源の数も種類も増え、海の音環境は大きく変化しました。
そのため、過去のクジラの鳴き声を知ることは、騒がしくなった現在の海との比較において重要な「基準点」になります。
ザトウクジラの歌が時間とともにどのように変化してきたのか、人間活動がどのような影響を与えてきたのかを検証する手がかりになるのです。
WHOIは現在、受動音響ブイやスローカム・グライダー、自律型ハイドロフォンなどを用いて海を常時モニタリングしています。
また、Robots4Whalesプログラムでは、デジタル音響監視装置(DMON)を搭載した自律型ロボットが、リアルタイムでクジラの存在を検出しています。
音の周波数変化を解析し、既知の鳴音ライブラリと照合することで、どの種のクジラが鳴いているのかを分類します。
その結果は衛星経由で陸上に送られます。
このような高度なシステムと比べると、1949年の録音は極めて原始的です。しかし、その素朴な記録が、80年後の科学に新たな問いを投げかけているのです。
意味が分からなくても、残しておく価値
今回の発見が教えてくれるのは「今は意味が分からないデータでも、未来の科学を変える可能性がある」という事実です。
1949年の研究者たちは、自分たちがザトウクジラの歌を録っているとは知らなかったかもしれません。
しかし、その音を消さずに残していたからこそ、私たちは現在の海と過去の海を比較できるのです。
海は目で見るだけでは分かりません。耳を澄ますことで、初めて見えてくる世界があります。
80年前に刻まれた小さなディスクは、静かにそう語りかけているのかもしれません。
参考文献
The oldest-known humpback whale recording was hiding in an archive
https://www.popsci.com/environment/oldest-humpback-whale-recording/
WHOI discovers the oldest known whale recordings, dating to 1949
https://www.whoi.edu/press-room/news-release/1949-audio/
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

