
1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故から約40年。
あのとき放出された放射線の影響は、当時現場で作業にあたった人々の体にどのような痕跡を残したのでしょうか。
そして、その影響は「次の世代」にまで及んでいるのでしょうか。
この問いに対し、ドイツのボン大学(Universität Bonn)を中心とする研究チームが、初めて明確な手がかりを示しました。
チェルノブイリ事故後の除染作業員の子どもたちのDNAを詳しく調べたところ、「ある特定タイプのDNA変異」が増えていることがわかったのです。
研究の詳細は2025年6月23日付で学術誌『Scientific Reports』に掲載されています。
目次
- 除染作業員の子供たちにDNA変異が?
- DNA変異は健康に影響を及ぼすのか?
除染作業員の子供たちにDNA変異が?

これまで、放射線による遺伝的影響が親から子へ伝わるのかどうかについては、はっきりした結論が出ていませんでした。
そこで研究チームは、少し視点を変えました。
単に「新しいDNA変異が増えているか」を見るのではなく、「近い場所にかたまって起きているDNA変異」に注目したのです。
DNAは長いひも状の分子ですが、その中のごく近い範囲に、2つ以上の新しい変異がまとまって現れることがあります。
研究ではこれを「クラスター型デノボ変異(clustered de novo mutations、cDNM)」と呼んでいます。
なぜ、まとまりが重要なのでしょうか。
放射線は体内で活性酸素という反応性の高い分子を生み出します。
これらはDNAを傷つけ、ときにDNAの鎖を切断します。
もし修復が完全でなければ、その周辺にいくつかの変異がまとまって残る可能性があると考えられています。
チームは、チェルノブイリの除染作業員の子ども130人、放射線にさらされた可能性のあるドイツ軍レーダー操作員の子ども110人、そして放射線に曝露していない親をもつ対照群1275人の子どもを対象に、全ゲノム解析を行いました。
その結果、子ども1人あたりに見つかったcDNMの平均数は、
・対照群:0.88個
・レーダー群:1.48個
・チェルノブイリ群:2.65個
という違いがありました。
統計的な補正を行っても、この差は有意と判断されました。
一方で、単発のDNA変異の数そのものは、3つのグループで大きな差は見られませんでした。
つまり、「突然変異が大量に増えた」という話ではなく、「特定の形でまとまって現れる変異が有意に増えていた」という結果なのです。
DNA変異は健康に影響を及ぼすのか?
さらに興味深いのは、父親の推定被曝線量が高いほど、子どものクラスター型デノボ変異(cDNM)の数も多い傾向が見られた点です。
特にチェルノブイリ作業員のグループでは、この関連が統計的に示されました。
これは「被曝量が増えるほどDNAに残る痕跡も増える」という考え方と整合的です。
ただし、ここで重要なのは健康への影響です。
チームによると、cDNMの増加は確かに観察されたものの、その数はゲノム全体から見ればごくわずかです。ヒトのDNAの大部分は、タンパク質を直接つくる領域ではありません。
実際、この研究では、被曝した親の子どもに病気のリスクが高まっているという証拠は見つかりませんでした。
研究者たちは「父親の年齢が高いほど子どもに伝わる突然変異が増える」という既知の現象と比較し、本研究で観察された放射線の影響は、それよりも小さい可能性があると述べています。
もちろん、限界もあります。
被曝は数十年前に起きたため、放射線量は当時の記録や古い機器のデータをもとに推定されています。
それでも本研究は「長期間の低線量被曝が、次世代のDNAにわずかながら痕跡を残す可能性」を示した初めての明確な証拠と位置づけられています。
残された“静かな痕跡”
チェルノブイリ事故は、歴史に残る原子力災害として語られ続けています。
今回の研究は、その影響が目に見える病気としてではなく、「DNAの中の小さな痕跡」として次世代に残る可能性を示しました。
それは恐怖をあおるものではなく、むしろ科学がようやく捉え始めた微細なサインです。
放射線安全対策の重要性を改めて示すと同時に、「世代を超える影響」を冷静に、データに基づいて理解することの大切さを教えてくれる研究と言えるでしょう。
事故から約40年。
DNAという最も小さな記録媒体の中で、あの日の出来事は、今も静かに語り続けているのかもしれません。
参考文献
DNA Mutations Discovered in The Children of Chernobyl Workers
https://www.sciencealert.com/dna-mutations-discovered-in-the-children-of-chernobyl-workers
元論文
Evidence for a transgenerational mutational signature from ionizing radiation exposure in humans
https://doi.org/10.1038/s41598-025-07030-5
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

