村瀬秀信氏による人気連載「死ぬ前にやっておくべきこと」。今回は高校野球を追い続けているスポーツライターの樫本ゆき氏をインタビュー(中編)。高校野球に対する熱い思いや自身のキャリアについて、たっぷり語っていただいた。
村瀬秀信氏による人気連載「死ぬ前にやっておくべきこと」。今回は高校野球を追い続けているスポーツライターの樫本ゆき氏をインタビュー(中編)。高校野球に対する熱い思いや自身のキャリアについて、たっぷり語っていただいた。
学生時代に試合観戦記をまとめたフリーペーパー発行
『輝け甲子園の星』
日刊スポーツ出版社が1975年に創刊させた我が国で最も古い高校野球雑誌。9年前に一時休刊したが、2018年に株式会社ミライカナイが復活させたほど、高校野球ファンから強い支持を集めている。
そして、この雑誌には代々受け継がれてきていた「ネー」という称号があった。主に読者コーナーを担当する高校野球のお姉さん。ユキネーはその4代目お姉さんにあたる。
「中学3年生でこの雑誌に出会い、そこに沢村悦子さんという『E子お姉さん』と呼ばれた初代お姉さんがいまして、その人のコラムがすごい好きだったんです。『桑田くん、清原くんといい思い出ができたよ』なんて話が書いてあるんです。いいなぁ~と思って(笑)。すぐにここで働きたい、と日刊スポーツに就職すると心に決めていました」
高校生になったユキネーは女子高に進学。吹奏楽部に入り、『かっぱ寿司』で遠征費用を貯めつつ、それ以外の休みは全部高校野球観戦に使った。いわゆる追っかけギャルである。
「勉強なんかしているヒマないですよねぇ(笑)。1年生の夏に、初めて甲子園に深夜バスで行くんですけど、それ以外は地元の野球場に行って、そこで日刊スポーツの腕章をしている記者の人を必死に探すんです。すぐに声を掛けましたよ。“私、『甲子園の星』で働きたいんです。どうすればいいですか?”って。そんなこと言われたら、びっくりしますよね。でも当時の記者の人たちが名刺をくれて“普通に募集をしているから、なりたければなれるよ。頑張れよ”と言ってくれたんですね」
その日からユキネーの猛突進が始まる。
その年から自身の試合観戦記をまとめた、『ラッキーゾーン』というフリーペーパーを作り始めた。記事の中心は追っ掛け観戦記。好きだった選手にインタビューはできなくても、スタンドで出会った選手の父母に横顔を取材することはできた。女子高生が作る高校野球同人誌『ラッキーゾーン』は、年4冊を3年間刊行する実績を積み、ユキネーは次のステップ、短大生になる。
目指すは日刊スポーツのバイト、ただ一つ。
「募集していたバイトが総務部しかなかったんですよ。でも面接で『私、どうしても編集をやりたいんです。編集のバイトはいつ空きますか?』としつこく熱弁したからでしょうね。数カ月後に『編集のバイトが空いたよ』と電話が来て、念願の日刊スポーツ編集部にもぐり込むことができました。感謝ですよ。学生バイトの仕事はプロ野球の結果や大相撲の星取表の整理ですね。そこで短大を卒業するまで2年間働くんですけど、編集部を見ても、どこにも『甲子園の星』を作っている人がいないんですよ。日刊スポーツなのに、なんでどこにもないんだろう?」
【死ぬ前にやっておくべきこと】アーカイブ
恩人の『輝け甲子園の星』編集長との出会い
このとき、ユキネーは重大なミスを犯していた。『輝け甲子園の星』は日刊スポーツの隣のビルにある「日刊スポーツ〝出版社〟」の発行だったのだ。苦労してバイトになったのに、『そんなん知らんがな!』と、折れてしまわないのがユキネーである。編集部が明らかになるや、すぐに隣のビルに直撃した。
「『ここで働きたいんです。何か手伝えることがあれば言ってください』って。みんな忙しいから最初は相手にしてくれないですよ。ニコニコして座って見ているだけ。日刊でのバイトが始まる16時前に編集部へ行って『また来ましたー』とか言って。今思うと、すごいよね(笑)。でも、そんなことを続けていたら当時の編集長、中出水勲さん(’20年他界)さん…この方は恩人なんですけど、『お前、面白いな、取材に行ってみるか』と、ハタチのときですよ。甲子園の後の“あの球児に会いに行く”みたいなモノクロの企画で、最初の取材は横浜商大高校の福田香一投手でした。1人で取材に行くんですけど、うれしいから4時間ぐらい話聞いて、写真も1枚しか掲載ないのにフィルム36枚撮りのポジフィルム3本使って。編集長が出来上がりを見て『こんなに撮って、バッカじゃねえの! しかもほとんど真っ暗じゃねえか』って言いながらも面白がってくれましてね。当時、ポジフィルムは高価で貴重だったんです。怒られるかと思ったのに、笑っていました」
居候の身ながら上々のデビュー戦を飾り、自信をつけたユキネーは、日刊スポーツ本社のバイトを辞め、正式に日刊スポーツ出版社のバイトに採用される。
当時は就職氷河期ど真ん中。編集部は欠員が出なければ社員は募集しないため、「このままフリーターでもいいや」と内勤作業に勤しんでいると、約半年後に社長に呼ばれ面接が行われた。
「自分の心は一つです」と、パンチ佐藤のごとく信念を貫き通した純愛はついにここに実を結び、’94年に正式入社。最初に任されたページが読者コーナーだった。
そう、その担当こそがこれまでE子お姉、T子お姉、Y子お姉と受け継がれてきた歴代ネーの4代目。“ユキネー”がここに誕生したのである。
「天にも昇るような気持ちでした。『ユキネー聞いて』って女の子の読者から手紙がたくさん来る。純粋にうれしくて、毎月律義に返事を書いていました。編集部に毎月500通も来るんです。本当に、お姉さんになったんだなって」
そしてユキネーの甲子園デビューを迎える、’95年春のセンバツ。その年は1月に阪神大震災、大会5日前には編集部のある築地で地下鉄サリン事件が起きるという波乱の幕開けとなった。
(後編へ続く)
取材・文/村瀬秀信
「週刊実話」2月26日号より
