
落ちものパズルの元祖である『テトリス』を知らない人はいないでしょう。
四角いブロックを回転させながら隙間にぴったりとはめ込んでいく、あのシンプルなゲームが、トラウマの治療に役立つかもしれないという研究結果が報告されました。
イギリスのケンブリッジ大学(University of Cambridge)の研究チームは、英国の医療従事者を対象にした臨床試験で、テトリスを使ったデジタル介入がトラウマ記憶のフラッシュバックを大きく減らすことを示しました。
研究結果は2026年3月号の『The Lancet Psychiatry』に収録されています。
目次
- フラッシュバックする「トラウマ記憶」の治療にはテトリスが効果的
- なぜテトリスでフラッシュバックが減ったのか
フラッシュバックする「トラウマ記憶」の治療にはテトリスが効果的
心的外傷後ストレス障害(PTSD)の代表的な症状の一つが「突然よみがえるトラウマ記憶」です。
衝撃的な出来事の映像が、本人の意思とは関係なく急に頭に浮かんでくる状態を指します。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックでは、医療従事者はこうした場面に繰り返し直面しました。
英国の国民保健サービス(NHS)職員では、PTSDの有病率がパンデミック前の13%から、流行のピーク時には25%まで増えたと報告されています。
彼らは、「蘇生に失敗した患者の姿」や、「家族が悲しみに崩れ落ちる場面」が突如フラッシュバックすることに苦しんできました。
多くの人が、今も同じような状況の中で働き続けているため、トラウマからの回復が追いついていません。
従来のPTSD治療は有効ですが、専門家による複数回のセッションが必要で、トラウマ体験を詳しく言葉で語る負担もあります。
そこで研究チームは、より短時間で実施できるデジタル介入「Imagery Competing Task Intervention(ICTI)」を開発しました。
ICTIの手順はシンプルです。
まず参加者は、自分のトラウマ体験の中から特につらい場面を選び、その映像を数十秒ほど頭に思い浮かべます。
詳しく説明したり、長く思い出したりする必要はありません。
大事なのは、記憶を一度「再び動き出した状態」にすることです。
次に、研究者は「mental rotation(メンタルローテーション)」という認知スキルを教えます。
これは、頭の中で物体を回転させる力のことです。
L字型のブロックを頭の中で90度回したらどの向きになるか、実際には動かさずに想像するようなイメージです。
最後に、参加者はこのメンタルローテーションを意識しながら、テトリスを約20分間プレイします。
ふつうのようにスピードを競うのではなく、「ブロックをどの向きに回せば隙間に入るか」をゆっくり考えながら操作することが求められました。
なぜテトリスなのかというと、トラウマ記憶もテトリスも、どちらも「視覚イメージ」と「空間の把握」を強く使うからです。
脳の中で視空間情報を処理するワーキングメモリには容量の限界があります。
そこで、一度よみがえらせたトラウマ映像のすぐ後に、視空間的な負荷の高いテトリスを行うことで、記憶が再び固定し直される過程に割り込めるのではないか、と考えられました。
この仮説を確かめるため、研究チームは英国の医療従事者99人を対象にランダム化比較試験を行いました。
全員が仕事でトラウマとなる出来事を経験し、直近1週間にフラッシュバックが3回以上あった人たちです。
参加者は三つのグループに分けられました。
ICTIを受けるグループ、モーツァルトに関する短いポッドキャストを聞いたあとモーツァルトの音楽を20分聴くアクティブコントロール群、そして通常どおりのケアや治療を続ける通常治療群です。
その結果、4週間後のフラッシュバックの回数は、ICTI群では中央値が0.5回、対照となった二つのグループではどちらも5回前後でした。
つまり、ICTI群ではフラッシュバックが約10分の1になっていたことになります。
なぜこれほどの効果が表れたのか、詳細を見てみましょう。
なぜテトリスでフラッシュバックが減ったのか
まず、効果の持続性が重要です。
ICTI群では、4週後だけでなく12週後、24週後でも侵入的記憶の少なさが保たれていました。
24週(およそ6か月)たった時点で、ICTI群の参加者の70%は「フラッシュバックがまったくない」と答えています。
一方、音楽とポッドキャストを聴くだけだったグループや、通常治療だけのグループでは、この割合は1〜2割程度にとどまりました。
フラッシュバックだけでなく、PTSD全体の症状も改善しました。
研究では20項目の質問票(PCL-5)を用いて、悪夢、回避、過覚醒など広い範囲の症状を評価しましたが、ICTI群は4週後、12週後、24週後のすべてで、他のグループよりも大きな改善を示しました。
初めの時点で「PTSDが疑われる」と判断された人たちも、12週や24週の時点では、ICTI群では誰もその基準を満たさなくなっていました。
フラッシュバックという一つの症状に介入することで、他の症状にも連鎖的な良い影響が広がった可能性があります。
では、なぜテトリスを使ったICTIがこのような効果を示したのでしょうか。
研究チームは、脳の中で起きているプロセスにも注目しています。
記憶は一度思い出されると、不安定な状態になり、その後もう一度「固定し直される」と考えられています。
この不安定な時間帯に、同じ視空間系を強く使う課題を行うと、元の記憶の「鮮明さ」や「フラッシュバックしやすさ」が弱まる可能性があります。
実際に、研究ではテトリスのスコアが高いほど、またトラウマ映像を思い出したときの鮮明さの評価が低いほど、翌日にフラッシュバックがゼロになる確率が高いという結果が出ました。
これは、テトリスという視空間ゲームが、単なる気晴らしではなく、脳の視覚イメージ処理に直接競合していることを示唆しています。
安全性についても確認されています。
ICTIを受けたことで、新たな症状が悪化したり、重大な副作用が増えたりしたという証拠はありませんでした。
この研究の大きな意義は、治療の「軽さ」と「広げやすさ」にあります。
ICTIは、最初に一度ガイドを受ければ、その後は自分一人でも続けられるように設計されています。
タブレットやパソコンがあれば実施できるため、専門治療者が不足している地域でも導入しやすいと考えられます。
もちろん、この研究は医療従事者を対象にした99人の試験であり、より大きな規模や、他の人々にも同じように効果があるかは、今後の検証が必要です。
それでも、日常になじみのある「ゲーム」を使って、脳のしくみに働きかけることでトラウマを和らげるという発想は、PTSD治療の新しい可能性を示しています。
テトリスと同じように、心の中に不意に落ちてくるつらい記憶も、「回転させる」ことでうまく片付けられるのかもしれません。
参考文献
Tetris gameplay treatment helps reduce traumatic flashbacks for frontline healthcare workers
https://www.cam.ac.uk/research/news/tetris-gameplay-treatment-helps-reduce-traumatic-flashbacks-for-frontline-healthcare-workers
元論文
A digital imagery-competing task intervention for stopping intrusive memories in trauma-exposed health-care staff during the COVID-19 pandemic in the UK: a Bayesian adaptive randomised clinical trial
https://doi.org/10.1016/S2215-0366(25)00397-9
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部

