「成果」への移行がもたらす「働かないおじさん」の行方
裁量労働制の拡大が真に狙い撃つのは、実は管理職ではない。最も影響を受けるのは、非管理職でありながら年功序列で高い基本給を維持し、さらに「残業単価」というレバレッジをかけて年収を積み上げてきたベテラン層だ。
彼らこそ、前述した「時間=評価」のルール下で、仕事の遅さを報酬へと変換してきた構造的受益者である。
だが、「時間」という尺度が機能しなくなる裁量労働制の土俵では、会社にいた時間の長さは何の価値も持たなくなる。10時間かけて会議資料を整えていたベテランと、1時間で本質的な戦略を練る若手。この二人の報酬が逆転、あるいは適正化されることは、これまでの「時間の切り売り」で生き延びてきた層にとっては厳しい宣告となる。
労働科学の「仕事の要求度・コントロールモデル」によれば、健康リスクの核心は時間の長さだけではなく、進め方を自分で決められない「裁量ゼロ」の状態にあるとされる。
この観点から見れば、自律的に動けず、会社に歩幅を合わせてルーチンワークに安住してきた人たちにとって、自分の歩幅で進むことが求められる裁量労働制は、自由ではなくむしろ過酷な試練となるだろう。
「給料が同じなら会社は限界まで働かせるはずだ」という批判
「時間」という古い鎖を断ち、個々人が生み出した価値で勝負する新たな世界は、有能な労働者が報われる健全な競争社会への入り口だ。しかしそれは同時に、スキルを磨かず時間管理という「優しい壁」に寄りかかってきた層に対し、冷徹に「プロとしての成果」を問い直すプロセスでもある。
彼らが長年培った経験を「成果」に変換できないのであれば、組織内での存在意義は、制度の転換とともに急速に霧散していくことになるだろう。
たしかに「給料が同じなら会社は限界まで働かせるはずだ」という批判は、極めて切実で外せない懸念だ。はたして、裁量労働制の拡大は、こうした懸念を払しょくし、「働かないおじさん」を淘汰する仕組みとして機能できるのだろうか。

