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ビジネスや言語学習から学校教育の現場まで…いま話題の哲学的思考法「本質観取」は、なぜ注目されるのか?

ビジネスや言語学習から学校教育の現場まで…いま話題の哲学的思考法「本質観取」は、なぜ注目されるのか?

「本質観取」という言葉を耳にしたことはあるだろうか。その名のとおり、物事の本質を見極めるための、哲学2500年の叡智と歴史が詰まった思考の方法だ。参加者たちはさまざまな概念や事柄の本質を、対話を通して言葉に編み上げ合うことで、互いが納得する「共通了解」を見出すコツをつかんでいく。こうした「本質観取」のワークショップが、いま全国の学校や企業でも広がりつつあるという。
昨年、新書『本質観取の教科書』が刊行され、大きな話題を呼んだ。同書はなぜこれほど注目を集めているのだろうか。著者3名に出版までの経緯と、込められた思いについて聞いた。

──「本質観取」という言葉、今回の本で初めて知りました

苫野 想像以上の反響に驚いています。「本質観取」という言葉じたい、ほとんど誰も知らなかったはずなのに、これだけ興味を持ってくださる方が多いことに希望を感じました。新書の帯にも書いてありますが、「“言いっぱなし”でも“論破”でもない」本当に建設的な対話に関心が集まっているんだな、と。

今回の新書を基にして、実際に本質観取をやってみましたという声も届いています。私は特に学校教育が大事なフィールドのひとつなので、学校で試してみたという方が多くて嬉しいですね。

岩内 私には哲学関係の方から多く反響が来ています。今回の新書が出るまでは、本質観取というと哲学を専門に学んだ人しかできないんじゃないか、難しいんじゃないか、と思われていた面がありましたが、新書を参考に試してみたとの声が届いています。すでに哲学対話をやっていた人たちの間にも広まったんじゃないかな、と手応えを感じています。

稲垣 私は日本語教育が専門で、「対話」は日本語教育の重要なキーワードでもあります。「ファシリテーションのコツ」など、具体的なやり方が詳細に書かれているのがとても好評で、言語教育でも実際に試してみたいと思った、という現場からの肯定的な感想が多いです。

──今回は3名の著者による「共同執筆」形式という、少しイレギュラーな体裁になっています。

苫野 通常は複数の著者がいる場合、各章をそれぞれが書く「分担執筆」形式になりますよね。でも、この形態ってどこか読者を“没入させない”ところがある気がするんです。なので、一気に読んでいただけるようにするには、単独の著者が書いているようなスタイルにしたいね、ということは割と早くから3人で話し合って決めました。

大枠で分担する内容・範囲を決めて、いったんそれぞれで書いて。それを互いにコメントし合って書き直し、最終的には私が文体の統一をしたんですけど……。これが予想外にとんでもなく大変でした。私がこれまでに書いた本で一番苦労したと思います(笑)。

──「あとがき」では、本書は「まさに“対話”を重ねて書き上げた共同作品である」と書かれています(246頁)。この本の執筆そのものも、ひとつの“対話”の実例だったのですね。

苫野 やっぱりそれぞれ著書と個性的な文体を持っている著者たちなので、個性的な思考の流れがあります。それを生かしつつ文章を整えていくわけですが、どうしても文体を変えると持ち味が消えてしまうこともあって。ここをいじると個性が消えちゃうんじゃないか、でも中途半端に修正するとチグハグになるんじゃないか、……とめちゃくちゃ悩んで。いままでに使ったことのない脳の部分を使った気がしますね。

稲垣 私は一般向けの書籍をこれまであまり書いたことがなくて、どうしても論文っぽくなっちゃうんです。今回はすごく勉強になりました。

苫野 推敲の作業を通して、岩内くんや稲垣さんの思考回路とかモードとかを追体験させてもらった気がします。時には「うわぁ~、岩内になりたくねぇ~!」と思いながらも、憑依する感じになったりして(笑)。そのプロセス自体も楽しかったですね。やっぱり同じところを目指して、志を共にできる仲間がいるというのはありがたいことです。

「本質観取」の先駆者としての師・竹田青嗣

──皆さんは哲学者の竹田青嗣先生のゼミ生なんですよね。

岩内 はい。だからこそ今回の新書が成立したという側面もあります。普通は専門家が一冊の本を書く時には専門性を重視するため、たとえ同じ分野が専門であってもこだわるポイントや論の進め方は変わってきます。なので「分担執筆形式」は難しいんですが、我々は竹田青嗣先生のところで学んだ同志ですし、大義のためには細かいものは捨てるという精神も良い意味で持ち合わせているので(笑)。

苫野 この3人はそれぞれが専門とする現場で本質観取の腕を磨いて、実践を広げてきました。長い間、同志として共に哲学探究をしてきた仲間で、3人の知見が合体することが今回は重要だったかなと思うんですね。

──本質観取はいつ頃から行われているのですか?

苫野 私たちは竹田先生のもとにいた頃から始めているので、もう20年ぐらいですかね。最初は竹田青嗣という本質観取の名手による、スパルタだったんですよ。

──スパルタ!

苫野 例えば「恋の本質を……言ってみろ‼」みたいな。「とにかく言葉にしろ~!」と言われて(笑)。今回の本に書いたような手順とかコツとか、そんなものは何もない状態でした。徒手空拳で、やってみろ! なんですよ。でも、そこで“本質観取力”は鍛えられていくんですね。ああ、こうやれば良いんだ、と。

後に西研先生(注:哲学者。東京医科大学教授)が、一定の手順とかを編み出してくださって。それをベースにしながら、もっと広く、多くの方ができるように方法論を整理していきました。一般の方々とやるようになって、もう15年ぐらいでしょうか。延べ数千人とやってきたんじゃないかと思います。

岩内 たぶん哲学対話というものが流行り始めたのはこの10年ぐらいだと思うんですが、竹田先生なんかはたぶん1990年代からやっていたと思うんですよね。むしろ、日本の哲学対話のはしりは竹田先生だったんじゃないかな。彼のゼミは本当にギルド的な、職人の徒弟制みたいな感じでした。

そういう意味では、もう30年以上の歴史があると思いますし、積み上げてきたものは結構長い。私もこの3年ぐらいは年間100回ぐらい、週に2~3回は必ず哲学対話の機会を持っています。大学だけでなく、保育園や企業でもやっています。最近は学生から「哲学対話をやりたいです」という声もあがるようになりました。文化として根づき始めている気がしますね。

稲垣 私は竹田先生に出会った時期が遅くて、博士論文執筆途中の2016年からゼミに参加しました。そこで現象学や本質観取に出会ったのですが、日本語教育にそれを応用しようとしたのは私が初めてで、ちょっと異端者扱いという感じで(笑)。今回の本が出たことで、少しずつみんながわかり始めてくれたかな、という感じがします。

本質観取って、言語教育の文脈でもぴったり「はまる」んです。それぞれの学習者が自身の経験を語り合って、皆が納得できる合意(意味)に至ろうとするのが本質観取ですよね。それって、言語教育の場で起きていることそのものじゃないですか。

本質観取は言語教育の常識を変える!?

──本質観取は言語教育にピッタリ「はまる」とは、どういう意味でしょうか?

稲垣 本質観取は、対話を通して言葉の本質に迫っていく、いわば皆で言葉の意味を「つくり上げていく」共同作業のような営みです。

いま、日本語教育は変化しつつあります。従来は、教師が言葉の意味に関する正解を握っていて、辞書的な意味を伝え、それを学習者が書き取って覚えるという考え方が主流でした。いまだにそういった教え方を続けている現場も少なくありません。

しかし最近はヨーロッパのほうから複言語主義(注)などが入ってきて、人間を単に言葉を教わる機械のような存在ではなくて、社会的存在として見ていこう、というパラダイムシフトが起こっています。その中で、そもそも言葉の意味は上から与えられるものじゃなくて、みんなでつくり上げるものなんだという発想に立って、日本語を母語話者ではない人のものにするという流れが生まれつつあるんです。日本語母語話者を絶対的な規範とする言語教育を問い直そう、と。

注 複言語主義(plurilingualism):一人の人間が、(たとえ部分的であっても)複数の言語の能力を持ち、それらが相互補完的に作用していると捉える考え方。

──言語教育というと、新しい外国語を学ぶ時には先生から一方的に正しい言葉を教えてもらう、というイメージが強かったです。

稲垣 いま日本では外国人がこれだけ増えているので、どうやって彼らと共生していくのか、日本語教育もそのためのものであるべきではないか、という見方が求められています。

少し昔なら「郷に入っては郷に従え」という感じで、規範的な日本語教育が展開されていたと思います。母語話者(日本人)の私たちが話している「正しい日本語」をあなたたちも話しなさい、日本に馴染みなさい、という形で。

まだまだ多くの日本語教室は旧態依然としています。本当に管理主義的なんですよ。外国人の学習者たちは色々なところから来た「労働者」で「人材」なのだから、「ちゃんとした日本語」を喋って働いてくれないと国益にならない、と。そういうスタンスで日本語教育をしている人たちもいます。

でも、そうじゃないんだ、これまで通りではいけない、もっと学習者主体で下からボトムアップの形でやらなきゃダメなんだ、という空気も生まれつつあるんです。そうした中で、従来的な日本語教育を崩したところで何ができるか、と考えた時に、共生社会のためにまずは「対話」しよう、ということになる。そこで本質観取が「はまる」んです。

本質観取では、学習者たち自身がみんなで言葉について議論しながら、その意味を自分たちでつくり上げていきます。「自由とは何か」「公正とは何か」「幸せとはどういうことなのか」。そういったことを、自分の経験を基に語り合う。

これこそ、学習者を社会的な存在とみなして、学習者主体で行う言語教育のあり方ですよね。教師が一方的に教えるんじゃないんです。あくまでもファシリテーターに徹する。学習者たちと共に言葉を学んでいく。そういう言語学習のあり方を実現するうえで、本質観取が果たす役割は極めて大きいんです。

これって、世界平和への道なんじゃないでしょうか。色んな国から来た、色んなバックグラウンドの人が平和や正義を語っていくと、価値や分断を超えうる対話になります。だからこそ排外主義が吹き荒れるいまの日本社会において、日本語母語話者じゃない人たちとの間でこそ、本質観取をやるべきだと私は固く信じているんです。

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