
マラソン選手などが「高地トレーニング」をするのは、空気が薄い環境に体を慣らして、持久力を伸ばすためです。
この「空気の薄さ」は、運動能力だけでなく、身体の健康にも関係しているかもしれません。
実は、標高の高い場所に住む人々ほど、平地で暮らす人に比べて糖尿病にかかるリスクが低かったり、血糖値の指標が良好だったりすることが、複数の疫学研究で報告されているのです。
しかし、「なぜ空気が薄い環境に行くと血糖値が下がるのか」という具体的な理由は、これまで多くの研究者を悩ませてきました。
この謎について、アメリカのグラッドストーン研究所(Gladstone Institutes)のイーシャ・ジェイン博士(Isha H. Jain)らの研究チームは、マウスを用いた実験により、「低酸素状態」になると血液の主役である「赤血球」が驚くべき変化を遂げることを突き止めました。
酸素を運ぶ役割で知られる赤血球は、低酸素環境下では、血液中の過剰な糖を自ら積極的に取り込む「糖のスポンジ(吸収源)」として機能し、全身の血糖値を下げる能力を持っていたのです。
私たちの体の中を流れる身近な細胞が、実は血糖調節の鍵を握っていたというこの発見は、糖尿病における将来の新しい治療戦略を考える上で重要な一歩となるかもしれません。
この研究の詳細は、2026年3月3日付で科学雑誌『Cell Metabolism』に掲載されています。
目次
- 糖はどこへ消えた?高地で暮らすと下がる血糖値の謎
- なぜ赤血球は糖を欲しがるのか?細胞の中で起きる巧妙な戦略
糖はどこへ消えた?高地で暮らすと下がる血糖値の謎
標高の高い地域で暮らす人々は、なぜか糖尿病になりにくい。
この現象はチベットやアンデス山脈など、世界各地の調査でたびたび報告されてきました。
さらに人間だけでなく、高地に住むネズミや鳥、チベットの豚なども、平地の仲間に比べて血糖値が安定していることが分かっています。
これほど多くの種類で共通して見られるということは、私たちの体には「空気が薄くなると血糖値を下げる」という共通の仕組みが備わっている可能性を示唆しています。
では、体内の糖分はいったいどこへ消えてしまうのでしょうか。
ジェイン博士らは最新の画像診断技術(PET/CT)を使い、酸素が少ない環境(低酸素状態)に置かれたマウスの体内で糖がどこに集まるかを詳細に分析しました。
当初は心臓や肝臓などの大きな内臓が糖をたくさん消費していると予想されていましたが、解析の結果、内臓だけでは増えた糖の消費量の約30%しか説明できないことが判明したのです。
残りの約70%という膨大な量の糖が、内臓以外のどこか、いわば「未知の吸収源」に吸い込まれていることになります。
ここで研究チームが注目したのが、血液の大部分を占める「赤血球(Red blood cells)」です。
空気が薄い場所に行くと、体はより多くの酸素を運ぼうとして、赤血球の数を平時の2倍近くまで増やすことが知られています。
研究チームは、低酸素ではない環境のマウスに赤血球を輸血して血中の赤血球量を増やすと、それだけで血糖値が下がることを確認しました。
逆に、酸素が少ない環境にいても、定期的な採血で赤血球が増えないようにすると、低酸素による血糖値の改善は起きにくくなり、血糖値は平地にいるときに近い水準に戻りました。
これらの実験から、赤血球こそが血液中の過剰な糖を回収する「隠れた主役」であったことが示されました。
なぜ赤血球は糖を欲しがるのか?細胞の中で起きる巧妙な戦略
酸素を運ぶのが専門であるはずの赤血球が、なぜこれほどまでに糖を必要とするのでしょうか。
そこには、酸素が少ない過酷な環境で生き抜くための、非常に合理的な理由が隠されています。
酸素が薄い場所では、赤血球は肺で取り込んだわずかな酸素を、体の隅々の組織へより効率よく「手放す」必要があります。
この酸素を手放す働きを助けるのが、「2,3-DPG(2,3-ジホスホグリセリン酸)」という物質です。
赤血球はこの助っ人となる物質を増産するために、材料となる糖を外から大量に取り込むようになります。
研究チームが詳しく調べると、低酸素環境で新しく作られた「若い赤血球」には、糖を取り込むための玄関口である「グルコーストランスポーター1(GLUT1:糖輸送体1)」というタンパク質が通常より多く備わっていることが分かりました。
いわば、糖を効率よく吸い込むための専用の窓口を増設し、血液中の糖をどんどん細胞内へと回収していたのです。
さらに、赤血球の内部でも驚くべき変化が起きていました。
通常、赤血球の中で糖を分解する酵素は、細胞の膜に張り付いて「スリープ状態」になっています。
しかし、酸素が少なくなると、この酵素が膜から離れて細胞の中を自由に動き回り、ラポポート-リューベリング・シャント(Luebering–Rapoport shunt:赤血球に特有の解糖系の迂回路)へ糖の流れを回して、2,3-DPGを作るプロセスを加速させることが突き止められました。
この仕組みはマウスだけでなく人間の赤血球でも共通して見られる反応です。
この発見は、将来の糖尿病治療に全く新しい道を開くかもしれません。
実際に糖尿病のマウスに、低酸素状態を疑似的に作り出す化合物(HypoxyStat:ハイポキシスタット)を経口投与したところ、血糖値が劇的に改善することが確認されています。
もちろん、単純に赤血球を増やしすぎると血液がドロドロになる(粘性が高まる)というリスクも考えられます。
そのため今後は、赤血球の数そのものを増やすのではなく、赤血球が持つ「糖を吸い取る能力」だけを安全に引き出すような、新しい治療法の開発が期待されています。
元論文
Red blood cells serve as a primary glucose sink to improve glucose tolerance at altitude
https://doi.org/10.1016/j.cmet.2026.01.019
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部

