「80年代初頭は、ほぼ『VAN』から枝分かれした次の世代のまた次、つまり第3世代的な小規模アパレル企業が続々と誕生しました。“餅は餅屋”という言葉があるように、シャツはシャツ屋、パンツはパンツ屋、カットソーはカット屋が定石だった専業時代。ぼくはパンツ屋でしたが、シャツ屋の和田くんはベイクルーズを定年まで勤め上げた後、しばらく世界を旅し、いろいろな出会いと発見があったらしく、最近、新会社を立ち上げ業界に復帰したばかり。どこのアパレルも夜中まで働いた時代、若かったぼくらは、横の繋がりを駆使して渋谷、原宿近辺の流行りのカフェバーに夜な夜な集まっていました。今だったらLINEで済むような話を延々して、いろいろ情報交換をした古い業界人。そんな和田くんを紹介します。」


ベイクルーズの創業期を駆け抜けて
日本におけるアメカジムーブメントの礎を築き上げたリビングレジェンドたちの貴重な証言を、Ptアルフレッド代表・本江さんのナビゲーションでお届けする連載企画。今回ご登場いただくのは、「ベイクルーズ」にて40年以上にわたりフロントマンとして活躍した後、自身のブランド「T.FUNKY WADA」を立ち上げたばかりの和田健さん。
学生時代からファッションへと傾倒した和田さんのキャリアは、当時、池袋に位置したインポートショップからスタートした。
「最初に立ったのは池袋北口のインポートショップ『DAN』でした。ダサい名前ですよね(笑)。その店に商品を卸していたのが、後に「ベイクルーズ」を立ち上げる、窪田夫妻。彼らに声をかけられたのがすべての始まりでしたね」。
1980年、窪田夫妻の誘いを受け、社員3名の小規模メーカーへと転籍。まだ大企業への片鱗もなく、倉庫の奥で商品を畳み、深夜にはバスで地方へと向かい、朝一の商談に備える。そんな過酷な日々を「とにかく楽しかった」と振り返る。
「熊本の『ブレイズ』とか、大阪の『中川』とか、全国の名店をとにかく廻りました。昼は商談、夜はバス(笑)。翌朝は展示会の設営。倒れる日もありましたけどね。当時はまだ企業というよりチーム感覚でした。何でも自分たちでやる。誰も役職を気にせず、熱量だけで走る時代だった。窪田さんは『成長こそ社会貢献、人を育てることが一番の貢献だ』と、よく言ってました。次第にそんな彼の思いが社内文化になっていったのです」。
バブルの空気が膨らみ、業界自体が浮足立つなか、和田さんは黙々と現場の声に耳を傾けた。
「売り場で何が動くか、肌で覚えました。当然データベースなんてなかったし、頼りになるのは、勘と感情。まあ、良くも悪くも、ぼくのからだの九割は『ベイクルーズ』でできていると思いますね(笑)」。
フレンチカジュアルという、あえての逆張り
90年代半ば、セレクトショップ界隈はアメリカ一色に染まっていく。いわゆる大手御三家も、アメカジやトラッド全盛期。
「だからこそ、異なる方向性を模索していました。勝ち負けじゃなく、同じことをやっても意味がないって思っていたのです」。
そうして和田さんはフレンチカジュアルに着目し、1996年、渋谷に「エディフィス」第1号店が誕生する。
「『アニエスベー』がちょうど日本に入ってきた頃で、白黒モノトーンが主流でした。でも、ぼくらはグレーとか生成りといった、曖昧な色みに惹かれました。フランスの街角にある“普通の服”を日本の感性でリミックスしたかったのです」。
もちろん見せ方も徹底した。店内を彩るヴィンテージの什器、あえての鈍い照明、音楽までフレンチテイスト。
「当時はまだ、生活感を見せるショップ、ライフスタイルショップなんて発想がありませんでしが、一方でパリのセレクトショップには、生活の延長線上に服があった。その空気を持ち込みたかったのです」。
「エディフィス」は瞬く間に支持を集め、アメカジ一色の市場に風穴を開けた。
「ズラすのが面白かった。日本人の几帳面さと、フランスの気だるさを混ぜると、なんか洒落て見える。それが『エディフィス』でしたね」。
さらに、その流れを受け、福岡で男女複合の「ジャーナル スタンダード」を展開。
「旧きよきアメリカを現代風にリミックスする。メンズもレディスも関係なく、同じ空間で服を楽しむ。手前味噌ながら、あれこそユニセックス時代の始まりだったと思います」。