
もし、あなたの大切な人が、ある日突然「特定の音」に恋をしたらどう思うでしょうか。
しかもその音が、第二次世界大戦で活躍した戦闘機のエンジン音だったとしたら。
これは作り話ではありません。
英ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の研究で、68歳の男性が認知症の発症後、「スピットファイア戦闘機のエンジン音」に強烈な愛着を抱くようになったのです。
【この症例を報告した海外ニュース記事では、『Rare Form of Dementia Causes Man to Fall in Love With One Sound』(=稀な認知症で、ある音と恋に落ちた男性)と表現しています】
また、音への嗜好の変化はそれだけにとどまりませんでした。
研究の詳細は2025年の学術誌『Practical Neurology』に掲載されています。
目次
- スピットファイアの轟音に涙するように
- 戦闘機の音が好きになった「脳の仕組み」とは
スピットファイアの轟音に涙するように
報告されたのは、68歳の男性患者(仮名CP)です。
彼は飛行場の近くに住んでおり、退役した戦闘機が自宅上空を飛ぶことがありました。
ところが認知症の症状が出始めてから、彼の行動は明らかに変わります。
スピットファイア戦闘機のエンジン音が聞こえると、何をしていても手を止め、急いで外に駆け出します。
そして空に向かって手を振り、時には喜びの涙を流すようにまでなったのです。
発症前には、そのような反応を示したことは一度もありませんでした。
重要なのは、この反応が「特定の音」に限られていたことです。
他の飛行機の音には無反応で、航空機全般に興味を持ったわけではありません。
自動車や他の機械音にも特別な関心は示しませんでした。
彼が惹かれたのは、あくまでスピットファイア戦闘機のエンジン音だけだったのです。
一方で、鳥のさえずりや高い声の話し声を強く不快に感じるようにもなりました。
音楽の好みも変化し、カバー曲を嫌い、原曲だけを好むようになります。
音の世界そのものが、再構築されたかのようでした。
戦闘機の音が好きになった「脳の仕組み」とは
CPには、音への執着以外にも変化が見られました。
性格は以前より短気になり、他者への共感が薄れ、衝動的になりました。
家族の死に無関心だったり、人の話を頻繁に遮ったりするようになります。
甘いものを好むようになり、チェスやワードパズルに強く没頭する傾向も見られました。
しかし興味深いことに、過去の出来事を思い出す能力や言語能力には明確な問題がありませんでした。
最終的に彼は「行動型前頭側頭型認知症」と診断されました。
しかしチームは、彼の症状が従来の分類に完全には当てはまらないことに注目します。
脳画像検査では、右側頭葉の大きな萎縮が確認されました。
右側頭葉は、社会的な手がかりの理解や、言語以外の情報から意味を読み取る働きに関与する領域です。
研究者たちは、これを「右側頭型」と呼ばれる前頭側頭型認知症の亜型と考えました。
このタイプでは、行動型と意味型の特徴が混ざり合うことがあります。
そして本症例は、新たな「強いこだわり」や「異常な嗜好の形成」が、この亜型の特徴である可能性を示唆しています。
さらに重要なのは、認知症が「音の処理」に影響を与える可能性です。
一般には、難聴が認知症のリスクを高めると報じられることが多いですが、この症例は逆の可能性を示します。
つまり、認知症が脳の音処理システムを変化させ、特定の音に対する快楽や嫌悪を生み出す可能性があるのです。
アルツハイマー病研究でも、複数の音を分離する能力の低下など、聴覚処理の変化が報告されています。
CPの症例は、それが「音への恋」として現れた、極めて印象的な例と言えるでしょう。
記憶だけではない、認知症の多様な顔
認知症と聞くと、多くの人は記憶障害を思い浮かべます。
しかしこの症例は、認知症が人の感情、快楽、嗜好、さらには音の意味づけそのものを変えてしまう可能性を示しています。
突然生まれる強いこだわり。説明のつかない好き嫌い。
それは単なる性格の変化ではなく、脳の変化が反映されたサインかもしれません。
CPの物語は、認知症の症状がいかに多様であるかを私たちに教えてくれます。
早期診断や適切な支援のためにも、「記憶」以外の変化に目を向ける視点が、これからますます重要になるでしょう。
参考文献
Rare Form of Dementia Causes Man to Fall in Love With One Sound
https://www.sciencealert.com/rare-form-of-dementia-causes-man-to-fall-in-love-with-one-sound
元論文
Pathological fondness for noises with right temporal lobe atrophy
https://doi.org/10.1136/pn-2025-004714
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

