■「マンスなりの楽しみが“マッチョ”の象徴とも言える口髭だったのではないでしょうか」
『しあわせな選択』は、イ・ビョンホン演じる主人公マンスが「すべてを手にした」と確信した至福の状態からはじまり、失業、うまくいかない就職活動、そして、ライバルたちの排除計画へと進んでいく姿を追う映画だ。マンスにはアルコール依存症だった過去があり、現在も苦労しながら酒を遠ざけている。さらに、ソン・イェジン演じる妻ミリの連れ子である長男シウォンも親にも言えない秘密を抱えているなど、一見、幸せに見える家庭のなかに、様々な不安が隠されている設定だ。

「アルコール依存症の問題があり、息子も養子という点は特別とも言えますが、私は彼を最も普通の人と捉えました。そんな彼が非常に極端な状況に追い込まれ、極端な行動を行うことになる。スクリーンの前にいる観客を説得しなければならない俳優は、まず、自分が演じるキャラクターを理解しなければなりません。そういった意味で、今回はかなり時間がかかり、撮影の後半に入るまで監督と話し続けました。そして、最終的に、この物語は世界中、どこの人でも共感せざるを得ない雇用の問題を語っていて、そのことを知るすべての人々を代表する人物がマンスだと考えました」
実在の出来事をモチーフにした『KCIA 南山の部長たち』(20)や大地震後のディストピア世界を描いた『コンクリート・ユートピア』(23)など、作品ごとに様々なキャラクターを演じてきたイ・ビョンホン。今回のマンスは、長年、製紙工場に勤めてきた会社員だが、冒頭のシーンでは口髭をたくわえ、ちょっと遊び人のような姿で登場する。

「衣装もメイクも、すべてパク・チャヌク監督のアイデアです。マンスの外見には2つの案があって、少し長めのストレートヘアと、パーマをかけたスタイルでカメラテストをしました。最終的にはスティーヴ・マックイーンをイメージした現在の髪型に髭をつけることになったんですが、最初は『なんだか南米の麻薬カルテルみたいだな』と思いました。マンスはとても普通の人物で、ちょっと軽いところもあるため、自分がなにかを成し遂げ、これで生活していけるとなった時に、自分なりの楽しみを見つけたいと思ったのではないでしょうか。そのうちの一つが“マッチョ”の象徴とも言える口髭だったのかな」
これまで映画やドラマのなかで、数多くのアクションをこなしてきたイ・ビョンホンだが、「やむを得ず」凶行を繰り返す今回のマンス役には他とは違った難しさもあったのではないだろうか。

「難しいこともありましたが、楽しかったです。マンスの少し不器用でぎこちない姿は滑稽ですが、一般の人が実際にそうした状況に置かれたら、彼以上に無様に見えるかもしれません。だから『観客は笑うかもしれないが、実際にそれをやっている本人はとても真剣で切実な心の状態だろう』と考え、笑いと切実さを同時に感じられるようにと思いながら演じました」
■「監督が盆栽を選んだのは“あれ”のためだったのか…本当の天才」

軍事境界線を挟んで対峙する南北兵士たちの友情の行方を見つめる名作『JSA』(00)で出会い、オムニバス『美しい夜、残酷な朝』(04)の一篇でも組んだパク・チャヌク監督とは約20年ぶりのタッグ。改めてその才能に驚かされたという。
「監督の頭の中をすべて知ろうとしても無理があります。いくつもの計画があり、本当に多くの意図がある。映画を6回、7回と観てようやく『あの時の要求にはそういう意味があったのか』と気づきました。マンスの趣味を原作小説にはない盆栽にしたのもすばらしい選択でした。木を原料として紙を作ってきた人が、植物を育てる趣味を持ち温室まで作っているというのは、アイロニカルですし、よく考えると残酷なことでもあります。自由に成長するはずの枝を自分の思い通りに曲げたり形を変えたりする姿には少し家父長的な面も見られます。そして、最終的に盆栽を選んだのは“あれ”のためだったのかということを知り、本当に天才だなと思いました」

監督からの鋭い要求に応えなければならなかった撮影現場は緊張感に包まれていたものの、笑いも絶えなかったと振り返る。初共演となった妻ミリ役のソン・イェジンとの絶妙なコンビネーションも、そんな雰囲気から生まれたようだ。
「どうしていままで一緒にやる機会がなかったんだろうと改めて驚きました。とても好きな俳優でしたから、リラックスして撮影できました。出来上がった作品を観て、すごく細かい感情まで逃さず演技していたことに気付き、本当にすばらしい俳優だなと感じました」

マンスの分身といってもよいほど似た境遇にある失業者ボムモ役は演技派として知られるイ・ソンミン。さらに彼の妻を、これまた多くの作品で名演を見せてきたヨム・ヘランが演じている。
「韓国での舞台挨拶やインタビューでもたびたび話してきましたが、キャスティングを聞いた時、『こんな“演技の怪物”のような俳優たちと、いつまた共演できるだろうか』と感じ、ワクワクしました。実際に一緒に演じてみると、シナジー効果のようなものを感じ、とてもよい影響がありましたし、学ぶこともたくさんありました」

91年のデビュー以来、トップ俳優として走り続けてきたイ・ビョンホン。今後、挑戦してみたいジャンルやキャラクターはあるのだろうか。
「特定のジャンルにこだわったり、無理に選んだりすることはありません。特に最近の映画を見ると、様々なジャンルが混ざったものも多いですよね。私たちの日常にとても近い気がします。生きていくなかでは、ある瞬間には恐れを感じたり、またある瞬間には笑ったり、さらに別の瞬間には少しメランコリックになったりすることもある。これが人生ではないでしょうか。重要なのは物語、そして、俳優たちです。演技が上手な人であれば、一度は共演してみたいです。『KCIA 南山の部長たち』を選んだ時もそんな気持ちでしたし、今回も当然そうです。常に渇望しているのは、これまで見せてこなかった新しい感情を見せられるのかどうか。それができる作品をこれからも探していきたいです」
取材・文/佐藤 結
