M-1グランプリやキングオブコントで準決勝進出経験もある実力派お笑いコンビ「アップダウン」。近年は「特攻隊」「原爆」「北方領土」といった重い社会テーマを「笑い」を入れて伝える活動を続けている。
2025年には広島市内の中学校で「原爆体験伝承漫才」を上演。戦争を知らない世代が笑いを通じて被爆体験に触れる新しい試みだった。同年には、戦後80年記念フォーラムとして、領土返還運動の原点・根室市で「ふるさと」と題した北方領土漫才を初披露している。
かつて若手のホープと呼ばれたコンビが、なぜ今、社会問題を笑いで伝える道を選んだのか。アップダウンの二人に、その理由を聞いた。
特攻隊を知り芸人としての引退を
──現在は自治体や教育委員会、地域のイベントなどで「特攻隊」「原爆」「北方領土」といった題材のネタをされています。もともとは正統派のスタイルでしたが、その芸風を変えるきっかけは何だったのでしょうか。
竹森 僕、実はお笑いが好きで芸人になったタイプではないんです。だから、賞レースにもそこまで熱くなれなくて。14年前、芸人としての意義を見出せなくなり、もう辞めようと思っていました。
そんなとき、知人に鹿児島県・知覧の特攻平和会館へ行こうと誘われて、半ば流されるような形で訪ねたんです。そこで特攻隊員の遺書や手紙、写真を目にして、「これが、映画やドラマではなく、現実に起きた出来事なんだ…」と衝撃を受けました。それに、先人たちがいたからこそ今の自分たちがあるのに、感謝すべき存在を自分も含め多くの人が知らないのはなぜなんだろう、と強く考えさせられて。
特攻隊員の方々に比べたら、自分の悩みなんて本当にちっぽけだと感じて、芸人を辞めるのをやめました。それから「この出来事をみんなが知るべきだ」と強く思うようになり、どうすれば伝えられるのかを約7年かけて模索したんです。
その中で、笑いを織り交ぜた“二人芝居”というかたちにたどりつきました。目を背けたくなるような重く暗い時代の話だからこそ、僕たちが培ってきた「笑い」という手法が有効だと思いました。
──その後、特攻隊員の二人芝居を2019年に上演。阿部さんは、もともと賞レースにも意欲的で「お笑いで売れたい」という志向も強い印象です。社会的なテーマを扱うことに抵抗はありませんでしたか。
阿部 正直最近まで腑に落ちてなかったんですよ。
以前、竹森がライブ企画で作った「ぬか漬けのうた」が2005年にNHK「みんなのうた」に採用されて、それをきっかけに“ぬかづけマン”のショーで全国の幼稚園を10年以上回ってきたんです。けど、「芸人なのにこれでいいのかな」という葛藤はずっとありました。それでも、「竹森がやるというなら…」という感じで続けてきて。
でも、歳を重ねて子どもが生まれ環境が変わる中で「教育の大切さ」を実感するようになり、歴史を伝える活動って、すごく大事なんだなと思うようになりました。実際に多くの人の反応を目の当たりにして、この活動は意義があると自信をもてるようになりましたね。
──「歴史を伝える活動」を続ける中、26年ほど在籍した吉本興業を退社し、フリーとしての活動を選ばれました。長年所属した事務所を離れた理由は?
竹森 相方ですら最初は腑に落ちていないくらいだったので、会社から活動への理解を得るのは本当に難しかったんです。賞レースで結果も出かかっている中で、商業的にも厳しいと思われ、「歴史を伝えて何になるの?」といった反応も多かった。事務所に所属している以上、周囲の理解が得られないと活動自体が進まないんですよね。
でも、吉本のおかげでたくさんの仕事をいただき、大きな恩恵を受けてきました。だから感謝の気持ちは強く、文句を言うのは筋違いだと思って、「だったら自分たちで責任を持って、好きに動こう」と決めて会社を離れたんです。
ただ、退所の意向をなかなか受け入れてもらえず、「辞めないほうがいい」と引き止められて、実際に辞めるまで4年近くかかりました。
被爆二世への忖度しない取材で知った原爆の本当の苦しみ
──特攻隊員の二人芝居をきっかけに、長崎の被爆二世の団体からは原爆漫才を、元島民で構成される「千島連盟」からは北方領土をテーマにしたネタを依頼されるなど、社会をテーマにした活動の幅も広がってきました。こうした社会テーマを扱うネタづくりは、一般的なネタとどんな点が違いますか。
阿部 作る段階で、すごく気を遣います。アイヌ民族を扱ったこともあるのですが、「自分が演じていいのか」と悩みました。発音や背景を学びましたが、それでも当事者の方が見てどう思うか不安で。
センシティブな題材だからこそ、どこを切り取って笑いにするかが重要です。そのため今は当事者の方に取材を重ねてネタを作っていますね。
──取材の際は、どんな話を聞くようにしていますか。
竹森 悲惨な体験だけではなく、当時の楽しかった思い出も必ず聞くようにしています。被爆された方も北方領土から引き揚げてきた方も、日常の中ではふざけたりもするし、笑いもある。そういう話をたくさん聞いていると、「どこを笑いにしてもいいのか」というラインが、少しずつ見えてくるんです。
あとは、率直に「何を伝えたいか」を尋ねます。原爆をテーマに依頼を受けた際、被爆二世の方に取材するのですが、最初は何を一番伝えたいのかが見えなかった。
誰もが「原爆は恐ろしい」というメッセージは知っているので、それだけでは届かないと感じていました。そう感じて深く話を聞いていくうちに、「つらいのは心の傷」というキーワードが出てきました。
重度の被爆者の方は、すぐに亡くなってしまういっぽうで、軽度の方は目に見える外傷がないまま生き残る。けど、いつ何が起こるかわからないし、子どもにも何か影響があるかもしれない。そんな不安を何十年も抱え続けてこられた。
──被爆のつらさは、肉体的な苦しみだけではないんですね。
竹森 しかも当時は、被曝は感染(うつ)ると思われていた。昨日まで仲が良くて、優しかった人たちが被曝したとわかると途端に距離を置いてくる。縁談がなくなることもあった。人間の裏側を目の当たりにし、心が擦り減っていく。唯一の被爆国として前例のない状況で、情報も錯綜していたわけです。そうやって当事者の声を深く聞いていくことで、現代にも通じるテーマが見えてきて、それをネタづくりに生かしています。

