最新エンタメ情報が満載! Merkystyle マーキースタイル
脳トレ四択クイズ | Merkystyle

厳しい自然と人の温かさ、滑りも心も“ととのう”野麦峠スキー場

1月20日(火)、今季最強の寒波が襲来するとニュースで騒がれる中、編集部員は長野・松本にある野麦峠スキー場へと向かった。「素人御免」というキャッチコピーに少々怖気づきながらも、いったいどんなスキーヤーやスノーボーダーが集まっているのか、それを確かめるべく現地へ足を運んだ。

子どもの遊び場から、修行の山へ

野麦峠スキー場の原点は、意外にも「子どもたちの遊び場」だった。

かつて奈川村(現松本市奈川地区)では、学校行事として乗鞍高原でスキーを通した交流を行っていたが、「地元にもスキー場がほしい」という声が高まり、スキー愛好会が結成される。村に要望を出し、ロープトー1本の「木曽路原スキー場」として産声を上げたのが、野麦峠スキー場の始まりだ。1981年の開設以来、地域の人々とともにスキー場を育て、広めてきた歴史がここにはある。

豊臣秀吉も小田原攻めのために通ったという、信濃と飛騨を結ぶ野麦峠は、かつて尾張藩の端でもあった。地理的条件から、当初は来場者の6〜7割が愛知・岐阜から。現在も地元松本に次いで名古屋からの来場が多く、遠くは大阪など関西圏からも人が訪れるという。

先見の明で生き残る

ベースエリアはかなり広く、初心者の練習にも最適

県による別荘地開拓やインフラ整備が進むなか、より良い雪質と地形を求めて、スキー場は現在の標高2,000m付近へと移設される。その際、村営スキー場の成功例として知られる野沢温泉スキー場で、当時社長を務めていた河野博明氏の知見を借りたという。

河野氏にコース設計を依頼し、「海外リゾートにも劣らない、非常に良いコースになる」という見立ての通り、SAJ公認の本格的なコースが生まれた。以降、県の合宿や大会、さらには世界レベルの選手たちが練習に訪れる場所となった。

この日は自衛隊の演習も行われていた

バブル崩壊後、レジャースキーヤーが減少していくなかで、野麦峠は生き残りをかけ、ターゲットを明確に絞った。競技者に適した環境づくりへと舵を切ったのだ。

締まった雪と澄んだ空気に、自然と気が引き締まる

平成4年(1992年)には、当時としてはまだ珍しかった高速クワッドリフトを6億円を投じて設置。1時間に2,400人を山頂まで運ぶ設備が整い、高低差700mを効率よく回せる環境が完成する。“コスパ” “タイパ”*という言葉が一般化するずっと前から、野麦峠は合理的な修行場だった。
*タイパ:タイムパフォーマンスの略、費やした時間に対する効果や満足度を示す言葉

配信元: STEEP

あなたにおすすめ