2011年に福島第一原発での原子力事故が起きる前、1986年に同レベルの事故を起こしたのが、ウクライナのチェルノブイリだ。事故後40年経った今でも約3000人が、日々被曝リスクと向き合いながら働いている。そして廃炉作業にはこの先何十年かかるかもわからないという。
チョルノービリ(チェルノブイリ)のあまりにも不完全な「安全神話」の実態に日本ペンクラブの視察団が迫った。書籍『原発回帰を考える 3.11から15年目の大転換』より一部を抜粋・再構成してお届けする。
330人の子どもたちに正常者は1人もいなかった
東日本大震災の数か月後、日本ペンクラブは福島第一原発の事故現場への取材を申し込んだが許可が下りなかった。そのとき、環境委員長だった中村敦夫さんが、いま福島に行くよりも事故後四半世紀が過ぎたチョルノービリ(チェルノブイリ)の現状を知る方が、福島の今後がわかると提案して視察日程を組み、チョルノービリ視察団の参加希望者を募った。
そして、2012年4月17日、中村さんを団長格に、当時会長の浅田次郎さんや、理事の森絵都さん、ビデオジャーナリストの神保哲生さん他、総勢8名の視察団一行はキーウ(キエフ)のボリスポリ空港に到着した。空港には現地通訳の江川裕之さんが出迎えてくれた。
翌18日、江川さんから、「チョルノービリの生存」事務局のナグレフスカ・リューダさんを紹介される。リューダさんの案内で、キーウ市内の放射線医学研究所に向かった。チュマーク副所長が、われわれの取材に応じる。
中村敦夫さんが、質問の口火を切った。2009年のウクライナ政府による公式発表では、被曝者数約320万人、そのうち継続的に保護観察を受けている人が230万人。甲状腺手術をした子どもが4400人と報告されているが、この数字に変化はあるのか?これに対して副所長は、当時子どもだった成年の手術者は2009年までに6029人に増加。320万人は被曝者ではなく被害者だと修正する。
中村理事はさらに、2005年のチョルノービリ・フォーラムではIAEA(国際原子力機関)発表による推定死亡者数を4000人と発表し国際的な反論を受けたが、2006年のWHO(世界保健機関)による修正では9000人とされた。
ウクライナの専門家はどう見ているか?また、1991年にウクライナがソ連から独立した時の人口が5200万人だったが、2010年には4500万人と20年間に700万人減っている。平均寿命も77歳から56歳と大幅に落ちた。
その原因をどう見るかと質問する。副所長は、56歳ではなく63歳だと修正したうえで、細かな数字については事故から25年過ぎた2011年に「国家報告書」をまとめ、インターネットでも英語で読めるからそれを参考にしてほしいと述べた。
さらに中村理事は、ウクライナでは年間5ミリシーベルトが強制避難区域に指定されているが、日本では20ミリシーベルト。これをどう思うかと聞くと、それは全く信じられない。医学的な見地からいえば一般人は年間1ミリシーベルトが許容範囲だと首をかしげる。
そのあと、ヴドヴェンコ主任研究員の話を聞く。胎内被曝した子どもたち1144人の調査をしたが、いずれもDNAに変化があったという。中でも、原発から3キロ離れたプリピャチ市の、330人の子どもたちに正常者は1人もいなかったと聞いて愕然とした。彼もまた詳細は「国家報告書」を見てほしいということで、突っ込んだ質問に対する答えは、なんとも歯切れが悪かった。
野山の除染は不可能
午後は、リューダさんの案内で彼女が代表を務める「チョルノービリの生存」の事務所を訪問。
ここでは、プリピャチ市などの汚染地域から、キーウに避難した子どもたちを、心身両面にわたって支援している。浅田さんが訪問団からの寄付を渡すと、リューダさんは、日本は大変な災害に見舞われたにもかかわらず、支援を続けていることに対して心から感謝していると述べた。
そして、事故後に2歳と4歳の子どもを連れて、プリピャチ市から避難した時の様子について話してくれた。配管工として事故処理活動に参加されたというご夫君も同席され、4号炉から200メートルの現場で高い放射線を浴びながら作業を続けた生々しい話を聞く。事故の半年後に肺炎を発症し、入院して治療を受けたが、多くの仲間はすでに亡くなったという。
翌19日は朝から大雨。いよいよチョルノービリに向かう。事故から25年後の2011年に造られたチョルノービリ記念公園に案内される。原発の燃料棒のレプリカを挟んだ岩の上にある、白と赤の折鶴をあしらったモニュメントの両端には、「Fukusima」と「Hirosima」の文字を抜いた黒い鉄板を載せたモニュメントが配されていた。
雨の中、一行はウクライナの非常事態省国際部の管轄下にある宿泊施設に入る。昼食後、いよいよ事故現場に向かう。右手にプリピャチ川から水を引いた、原子炉の冷却用の人造湖が見える。
そこに架かった鉄橋の線路の上から池をのぞいたら、はるか眼下に巨大な魚の影がたくさん動いていた。目を凝らすと、なんと2メートルもありそうな大鯰の頭部と髭がはっきり見えてびっくりした。汚染水の影響かと思ったが、残念ながら敷地内は撮影禁止だった。
車で4号炉の石棺の近くまで移動し、展望室に入れてもらう予定だったが、内務大臣が視察に来ているということで拒否されてしまった。4号炉から200メートル近辺での線量は5.3マイクロシーベルト。敷地内の道路は除染して3メートルのコンクリートで固めたというが、26年過ぎた2012年当時でも年間にして50ミリシーベルト近くだからかなり危険だ。
15時5分、原発から3キロの検問所を通過してプリピャチ市内に入る。途中、汚染されて樹木が変色したオレンジの森を通る。木々は伐採して土の中に埋め、再植林したというから大変な作業だったに違いない。
人間が住まなくなった廃墟には、オオカミやイノシシが跋扈するという。無人となった市の中心部の、市庁舎やホテル、高層住宅などが樹木におおわれ、あちこちに亀裂の入った道路の割れ目から、草や苔が繁茂している。線量が高いから、それを踏まないように歩けと注意される。
リューダさんが、26年前に住んでいたアパートが見つかったという。リューダさんは、事故の翌日に家族全員で着の身着のままキーウに強制避難させられて以来、初めてプリピャチを訪れたのだ。26年後の自宅の変わりように感無量で、同行したビデオジャーナリストの神保哲生さんのビデオカメラに向かって興奮気味に感想を語っていた。
17時45分、強制避難区域のパーリシュ村に住む、77歳の女性の家を訪問して話を聞いた。村を退去後に150人ほど戻ってきたが、生き残っているのは6人だけ。郵便局の人が毎月6日に届けてくれる年金で、週に1回来る行商から必要なものを買い、畑で作った野菜などを食べて生活しているという。部屋の壁には、額に入った家族の写真がたくさん張られていて、奥の部屋にはテレビが見えた。19時30分、宿泊施設の食堂に戻り夕食。
20日、8時に宿舎を出て食堂に向かう。濃い霧の中、17キロ離れた原発での仕事に向かう人々の姿が、木々の間からうっすらと見える。キーウなどの町から3000人ほどの原発労働者が来て、被曝をさけるため週に4日のローテーションでチョルノービリ地区に滞在しているという。
食堂を出発して、チョルノービリの西方向にあるオブルチ市に向かう。疫学検証センターに着いたのは11時15分。放射線防御の専門家や、非常事態省の地区担当者から話を聞く。ここでは、事故直後から内部被曝を防ぐための食料品の線量検査を行っている。
事故後数カ月は、牛乳は1キロあたり1万5000ベクレル、肉は6000ベクレル、この地区で頻繁に食べられているキノコ類は、なんと10万ベクレルの高濃度だったという。
今では、低線量に落ちているが、キノコに至ってはまだ7万6000ベクレル、ブルーベリーなども5200ベクレルと異常に高い。野生動物の肉も線量が高く、全体に森林地帯の汚染度は事故後26年たってもあまり落ちていない。つまり、野山の除染などというのは、全く不可能なのだ。

