日本の御用学者たち
午後は、ナロジチ市に向かう。1986年当時の人口は3万人だったのが、2012年には1万1000人。廃屋となった住居が点在する街中の市民病院で、市長や女性院長、小児科医の話を聞く。居住者で病気の人は、今も増え続けていて、健常者は少ない。
事故当時18歳までの子どもだった人は1987人。そのうち日常生活が困難で、医療的な監視体制下にある人が1300人。それ以外の人でも、年に1、2回肺炎を起こすなど、完全に健康な人はほとんどいない。中でも38人が重い障がいを抱えていて、2012年の時点では13人の子どもが身障者認定されている。病院の近くに住む、そのうちの2家庭に案内してもらった。
スベトコ・ブラートくんは、8歳で小学1年生。生後4カ月に心臓手術をしたのを最初に、これまで5回手術を受けたといい、病名は多岐にわたる。これからも目と性器の手術の予定が入っているという。母親は原発事故当時18歳でナロジチ市で結婚し妊娠していたが、最初の子どもは生後2カ月目に心臓障がいで亡くなった。23歳と18歳の女の子もいるが、2人とも甲状腺障がいがあるというから、明らかに母親の被曝の影響である。
事故当時18歳で、立ち入り禁止区域の裁縫工場で働いていたリュドミラー・ユフチェンコさんは、1992年に最初の子を妊娠するが、7カ月の早産で亡くしている。
20歳になる長女と17歳の長男の2人とも生まれた時から脳障がいを抱えている。ユフチェンコさん自身も子宮がんが腎臓に転移し、乳がんも膀胱に転移して、腎不全の手術もし、4年間透析に通っている。
いずれも事故の影響だと認定され、年金が支給されているという。70歳の父親も2年前に脳溢血で倒れ、夫はアルコール依存症で飲んだくれていると聞いて啞然とした。喩えようもなく過酷で悲惨な状況を生きるユフチェンコさんの話は、涙なしで聞けなかった。
視察団からのお見舞いを浅田さんから涙ながらに受け取って、家の外まで見送ってくれたユフチェンコさんと別れ、17時30分、一行はキーウへ向かった。長くて辛い1日だった。
4月21日、ホテルを出て郊外の内分泌研究所に到着。会議室に通され、ミコラ・トロンコ所長から研究所の役割などについてレクチャーを受ける。ウクライナで被曝した子どもの数は100万人いるというが、そのうち1万3000人のデータをこの研究所が持っていると所長は話していた。
事故当時0歳から18歳の子どもの甲状腺がん手術は、1990年に64件だったのが、2010年には約700件と急増していて、まだ増え続けていると聞き愕然とした。
所長は2011年の9月に福島を訪れ、福島県立医大の山下俊一教授とも緊密な情報交換をしているという。福島ではソ連時代のウクライナとは違って情報は正確に伝わっている。子どもたちも日常的に海藻類などをたくさん食べているから、ヨードも十分に摂取していて、栄養状態もいい。
医療器具も充実しているし、政府や専門家が福島に住む36万人のスクリーニング調査をして監視体制をとっているから、ウクライナの子どもたちのような悲劇は起こらないだろうと強調していたが、これらの言葉に一行は啞然とした。
原発事故後の福島の実態は、いまだに隠蔽されていることが少なくない。スクリーニング情報さえも、当事者たちに正確に伝えられているとは言い難い。18日に訪問したキーウ市の放射線医学研究所でも、ほぼ同じようなことを言われたが、海外の放射線医療研究者までも、日本の原発御用学者たちの口車に乗せられているかと思うと、情けなくなった。
というよりも、電力会社や原発関連企業から多額の研究資金を提供されてきた日本の御用学者たちが、国際的な放射線医療研究者のネットワークの中枢に入り込み、自分たちに都合の良い情報を流し続けてきたのではないだろうか?その背後には国際的な何らかの力が働いているのは想像に難くないのだが、それがどういうものなのかなど疑問は尽きない。
原発依存を強化するなど断じて許しがたい
敷地内には非常事態省によって建てられた特別施設があり、そこでは甲状腺がんを発症した患者に、半減期が8日間と短いヨード131を投与して、がん細胞を駆逐するラジオ・ヨード治療を行っている。
われわれは、外部に放射線が漏れないように、鉛の扉で隔離された病室に案内された。3度の食事は小さな窓から差し入れられ、排泄物は鉛でコーティングされた下水管を通して直接地下に貯蔵されてから処理される。
看護師も含めて立ち入りが禁止されているという、鉛の扉で閉ざされた高放射線量の病室前で、同行した医師が扉を開け中に入ってもいいという仕草をした。大丈夫なのかなと一瞬躊躇したが、ビデオカメラを担いだ神保哲生さんを先頭に室内に入った。その途端、線量計の警告音がけたたましく鳴り響き、扉の前まで来た一行は、慌てて引き下がった。
ところが、中村敦夫さんは室内に入ったまま、神保さんが室内の2人の若者にインタビューする様子にカメラを向けながら聞き入っている。ぼくもビデオカメラを向け、その様子をデジカメでも撮影した。
室内の若者はいずれも30代で、2011年甲状腺がんを発症し、肺にまで転移しているという。そのうちの1人は、事故の時は8歳で、キーウから10キロくらい北の町に住んでいたという。チョルノービリからは、100キロ以上離れたところだから、なぜ被曝したのか因果関係はわからないというが、事故現場を行き来する車両が頻繁に通っていたから、その影響なのではないかと推測される。
なるほど、そういうこともあるのかと、目に見えない放射線の怖さを改めて認識させられた。
神保さんが本人の許諾を得て、線量計を喉に近づけたら、奥の1人は33マイクロシーベルト。それに驚いて、手前の青年の喉で測ったら、なんと130.6マイクロシーベルトで、年間にしたら1000ミリシーベルトを超える。毒をもって毒を制するというのか、この治療に後遺症が残らないのか心配になった。
14時、事故後プリピャチ市から1万6000人が集団避難してきた、キーウのトロエシナ地区の団地内にある259番小学校を訪ねる。そこで、日本にも何回か来たことがある、避難児童たちを組織したチェルボナカリーナ音楽団の演奏を聞かせてもらう。少年少女たちの合唱を聞き、これまでの視察で心に溜まった鬱屈が、清められた小一時間であった。
21日夜、空港に向かい、ウイーン経由で全員無事に成田に到着した。
チョルノービリ事故から26年たった2012年でも、石棺の補修作業のために毎日3000人の人たちが動員され、廃炉にその後何十年かかるかわからない。いや何百年かもしれない。原発から生まれた核廃棄物に至っては、その処理に何万年何十万年かかるかもわからない。被曝した人たちの悲劇も何世代続くか全く予測がつかない。
福島第一原発の事故処理費用は23兆円。廃炉予算も事故後40年で8兆円だから年間2000億円。毎日約6億円近くつぎ込まれていながら、約880トンあると推定されるデブリもいまだに1ミリ弱しか採取できていない現状で、あと25年で廃炉などできるはずもない。
さらに膨大な費用をつぎ込むことが予想され、被曝被害の拡大も危惧されているにもかかわらず、原発依存を強化するなど断じて許しがたいと言わざるを得ない。
文/野上暁

