未曽有の被害をもたらした2011年3月11日の東日本大震災から15年を迎えた。あの日の衝撃をリアルな体験として持たない世代が成長する一方で、記憶の風化は確実に進んでいる。そんな中、あるコンテンツがSNS上で大きな反響を呼んだ。東京大学大学院の渡邉英徳教授と岩手日報社が共同制作したデジタルアーカイブ『忘れない~震災犠牲者の行動記録』だ。このデジタルアーカイブが生まれた経緯、震災があったことを伝える想いを渡邉教授と岩手日報社へ聞いた――。
アニメーションで見る亡くなった方々の最後の行動
15年の節目を迎えた今年、2月13日、東京大学大学院の渡邉英徳研究室と岩手日報社が共同制作した東日本大震災に関するデジタルアーカイブ『忘れない~震災犠牲者の行動記録』がリニューアルされた。
同デジタルアーカイブは、岩手県における震災犠牲者の地震発生時から津波襲来時までの避難行動を地図上で再現・分析したものだ。亡くなった人たちの最後の行動をデジタルアーカイブとして記録する取り組みで、アイコンひとりひとりに名前を付けて記録されている。
例えば、マップを陸前高田市に移すと、赤い丸と青い丸がその場にとどまったり、猛スピードで移動したりしている。
青い丸のひとつをクリックしてみると、「市都市計画課に勤務して1年目だった。地震後は外で市民を市役所などに避難誘導していたとみられる」と表示された。
赤い丸をクリックすると、「自宅で地震に遭い、3時ごろB&G海洋センタープールへ出勤。生徒を車に乗せて市民会館へ避難し被災した」と表示された。
大船渡市にマップを移す。同じ場所で重なるように赤い丸と青い丸が表示されている。
「認知症で寝たきりの状態。入所する施設は決まっていたが、息子の仕事が自宅待機状態だったため『その間だけは自宅で一緒にいたい』と息子が介護していた」
「地震直後は近所のおばの家に行き、家の状態を確認し、自宅に戻った。おばに額などが落ちているので注意するようにと話し、自分の母親が寝たきりのため自宅に戻り、親子で流された」
やるせない気持ちになるが、アーカイブでは2011年3月11日午後2時46分の地震発生時から津波襲来時まで、犠牲者がどこにいたのかを立体的な航空写真や地図と組み合わせて表示している。
遺族の気持ちの変化、悲しみを未来のために
遺族への取材を通じて収集されたデータのうち、居場所が詳細に判明した1326人分を可視化。さらに、遺族の了解を得た687人については、氏名や当時の具体的な行動内容も閲覧できるという。
このアーカイブの制作者の一人である東京大学大学院教授の渡邉英徳氏は、こう語る。
「2016年、講演会に岩手日報の記者が参加しており、『2011年から5年かけて亡くなった方のデータを集めてきた。これを可視化するのに協力してもらえないか』という打診があったんです。
データを拝見した時点で、今の完成形が頭の中で見えました。『世界中の人に見てもらいたい』と思って引き受け、数か月で完成させました」
このデータは、岩手日報社が深い悲しみの中にいる遺族と信頼関係を築きながら、ひとつひとつ丁寧に掘り起こしてきた「個人の人生の最期」の記録だ。岩手日報社の編集局メディアセンター長・鹿糠敏和氏は、こう語る。
「2012年から2025年まで、震災で亡くなった方々の顔写真と、生きた証として人となりや性格、趣味などを紹介する『忘れない あの人を思う』という企画を続けてきました。震災では(災害関連死を含めて)全国で2万人超が犠牲になり、岩手でも6000人以上の方が亡くなる、あるいは行方不明になっています。
ただ、数字ではなく、ひとりひとりに命があり、生きた証がある。それをきちんとした形で残したいという思いから、ご遺族に話を聞き、写真を提供していただいて紙面に掲載してきました。これまで掲載された犠牲者の数は、3496人です」
岩手日報社の運動部や文化部など、さまざまな部署の記者も参加し、入れ替わりを含めると『忘れない〜』の取材に関わった記者は80人以上にのぼる。
「震災から5年目の2016年、ご遺族の方々とできるだけ対面で取材を行い、1回で2時間ほどかかることもありました。話をする中で、『なぜ津波で亡くなってしまったのか』『どこにいたのか』という疑問の声が多く聞かれるようになりました。
震災から1年ほどは悲しみや喪失感が大きかったのですが、5年ほど経つと、『どう亡くなったのかを知りたい』『同じ悲しみを繰り返してほしくない』という思いが強くなってきました。そこで、地震発生時と津波襲来時の居場所が分かる方について、何らかの形で可視化できないかと考え、渡邉先生に相談したのです」(鹿糠氏)
渡邉氏は、こうした記者たちの地道な取材の「結晶」を受け取り、デジタル技術で可視化する役割を引き受けた。
「亡くなった方々の最期の記録は岩手日報でなければ実現できなかった。僕のような大学の教員が突然調査に行っても、そんなデリケートな話はしてくれないでしょう。地元紙が『教訓を残したい』という目的を持っていたからこそ、できたことなのです」(渡邉氏)

