
精神的に疲れた――コウチーニョ退団で浮かび上がるSNSの怖さ「サッカーはソーシャルメディアによって終わりを迎えた」【現地発】
2月20日、フィリッペ・コウチーニョ(33歳)が、契約満了を待たずしてチームを去る決断を下した。チーム最大のスターの退団表明は、ヴァスコダガマに衝撃を与えた。彼はその理由を「精神的に疲れてしまった」と語っている。
いったい何があったのか。何が彼をそこまで追い詰めたのか。真相は、ブラジルのサッカー界、いや、おそらくは世界のトップレベルでもまず例を見ないものだった。物理的な脅迫ではない。スタジアムでの暴力でもない。「言葉」が彼を疲弊させ、退団にまで追いやった。
まずは順を追って見ていこう。
インテル、エスパニョール、リバプール、バルセロナ、バイエルン、アストン・ビラとヨーロッパの名門クラブを渡り歩いたコウチーニョが、カタールのアル・ドゥハイルを経て古巣ヴァスコに戻ったのは、昨年7月のこと。当初はアストン・ビラからのレンタル移籍だったが、彼は愛するヴァスコと正式契約を結ぶため、約800万ドルとされる給与を捨て、イングランドのクラブとの契約を解除した。
ヴァスコで彼が託されたのは、伝説的な背番号「10」だった。子供の頃から着ることを夢見てきたユニホームである。リオで行なわれた盛大なイベントでは、クラブのレジェンドであるロマーリオがその背番号を発表。サポーターはコウチーニョを、王のように迎え入れた。代表復帰を期待する声もあがり、コウチーニョにとってブラジルへの帰還はまさに理想的な再出発に見えた。
2025年シーズンは公式戦56試合に出場して11ゴール・5アシスト。バルセロナ時代の数字には及ばないとはいえ、決して悪い成績ではない。ヴァスコの攻撃を支えていたのは間違いなく、14年ぶりにブラジル・カップ決勝にも進出(コリンチャンスに敗れて準優勝)。その原動力としてコウチーニョも称賛された。
今シーズンも調子は悪くなかった。公式戦7試合で3ゴール・1アシストを記録している。
だが、2月15日。状況が一変する。
この日ヴァスコは、リオ州選手権の準々決勝でヴォルタ・レドンダと対戦した。コウチーニョの出来はあまりよくなく、フェルナンド・ジニス監督はハーフタイムに交代を決断する。その瞬間だった。本拠地サン・ジャヌアリオで、ヴァスコのサポーターがブーイングを浴びせたのである。コウチーニョにとってはまさに我が家のような場所で。
ショックのあまりコウチーニョはロッカールームに下がり、後半はベンチに戻らなかった。そしてチームメイトのプレーを見ることなく、そのまま自宅に帰ってしまった。
試合後も非難は止まらなかった。インターネット上には罵倒が溢れる。
「恥知らず!」
「お前は役立たずだ!」
「出て行け!」
こうしたコウチーニョ批判の空気は、実は『ユーチューブ』や『インスタグラム』で活動する十数人のインフルエンサーによって意図的に作り出されたものだった。彼らはヴァスコのサポーターを名乗り、数十万のフォロワーを抱えている。その影響力を背景に、この試合の数日前から突如としてネガティブキャンペーンを始めたのだ。
「怠け者だ」
「まるで走らない」
「給料が高すぎる」
「やる気がなくなった」
メッセージが投稿されるたびに、状況は悪化していった。コメント欄やSNS上に同調する批判が増え、それがさらに拡散される。そうして形成された空気が、選手とチームに大きなプレッシャーを与えていった。
そこに重なったのが、ヴァスコの不振だ。今シーズンはブラジル全国リーグで勝星に見放されていて、3節終了時点で1分け2敗。17位に沈んでいた。不満を抱えていたサポーターたちは、有名で危険なインフルエンサーたちの扇動に乗せられてしまった。
そして、その感情がコウチーニョの交代をきっかけに爆発したのである。
高給を捨て、心から応援するクラブでプレーする道を選んだはずの男が、スタジアムではなくネット上でサポーターに押しつぶされたのだ。
2月18日、コウチーニョは自身のインスタグラムに長文のメッセージを投稿した。
「自分の人格とはまったく違うことで、多くの人から批判されるのは本当につらい。僕はサポーターにもチームメイトにも、ヴァスコにも、誰に対しても敬意を欠いたことは一度もない。僕を知る人なら、それはわかっているはずだ。(2月15日の試合で)ブーイングを受けながらロッカールームに向かったとき、僕はとても悲しかった。ソーシャルメディアでプレッシャーを感じ、理由もなく嫌われているのを見たとき、悟ったんだ。自分のこのクラブでのキャリアは終わったのだと」
メッセージはさらに続く。
「ヴォルタ・レドンダ戦にベンチに戻らなかったのは、自分の心を守るためだった。とてもつらい決断だった。正直に言う。僕は精神的にとても疲れている。僕はいつも内に秘めるタイプだから、ここでこうして伝えるのは簡単なことではない。それでも、正直でいたい。僕とヴァスコの関係は、愛だ。そしてそれは、これからも永遠に変わらない。胸が締めつけられる思いだが、いまこそ一歩引き、このヴァスコでのサイクルを終える時なのだと思う。ここで経験したすべてに感謝している。ヴァスコはこれからもずっと僕とともにある。胸の中に、歴史の中に、人生の中に。心から……すべてにありがとう」
ジニス監督は当然ながら慰留を試みた。だが同時に、その心境を理解もしていた。監督自身もまた、日々大きなプレッシャーのなかにいたからだ。
「フィリッペはサッカーを辞めることさえ考えていた。どれほど成功した人であっても、誰にでも助けは必要なのだ」
しかし、コウチーニョの決意は揺らがなかった。ヴァスコの経営陣にとっては寝耳に水の出来事で、慌てて契約更新の提案を行なったが、すでに遅かった。
2月20日、ヴァスコはコウチーニョの契約解除を正式に発表した。
33歳のコウチーニョは、自身が育った愛するクラブを去った。タイトルをもたらしたいと夢見ていたクラブ、そしてキャリアの終着点にしようとしていたクラブを。
さらにコウチーニョの退団から数日後、ジニス監督もまたクラブを去ることになる。
この問題には、ブラジルの指導者たちも警鐘を鳴らしている。SNSの影響力は、いまや誰にとっても無関係ではない。ローマの元選手で、ヴァスコの次期監督候補とも報じられているレナト・ガウーショは言い切る。
「サッカーはソーシャルメディアによって終わりを迎えた。そこは批判の戦場であり、無法地帯だ」
パルメイラスを率いるポルトガル人指揮官アベル・フェレイラはこう指摘する。
「選手が良いプレーをするために必要なのは批判ではない。愛情だ。だが、ソーシャルメディアには憎しみしかない」
ブラジルサッカーは、いま新たな問題に直面している。
ソーシャルメディアは経営陣よりも強い力を持ち、インフルエンサーは時に監督以上の影響力を持つ。どんな名選手であっても、インスタグラムやXのコメントによって壊されてしまう可能性がある。
かつてコウチーニョは「小さな魔術師」と呼ばれ、ジーコの後継者とも期待された。ジーコ自身も彼を「計り知れない、唯一無二の才能」と称えていた。
だがその才能は、怪我などが理由ではなく、ネット上の言葉に耐え切れなくなってピッチを離れる決断を下した。この事実を、私たちは重く受け止めなければならない。
取材・文●リカルド・セティオン
翻訳●利根川晶子
【著者プロフィール】
リカルド・セティオン(Ricardo SETYON)/1963年8月29日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。ジャーナリストとし中東戦争やユーゴスラビア紛争などを現地取材した後、社会学としてサッカーを研究。スポーツジャーナリストに転身する。8か国語を操る語学力を駆使し、世界中を飛び回って現場を取材。多数のメディアで活躍する。FIFAの広報担当なども務め、ジーコやカフー、ドゥンガなどとの親交も厚い。現在はスポーツ運営学、心理学の教授として大学で教鞭も執っている。
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