なぜ我々には「伝える」という能力が必要なのか? 「家族」と「群れ」という二つの共同体に属してきた人類特有の構造が、演劇をはじめとする芸術の起源となったという説がある。しかしその伝えるという能力が発達し、巨大な共同体を生み出した結果、戦争という新たな営みが生まれてしまったと可能性もあるという。
書籍『寂しさへの処方箋』より一部を抜粋・再構成し、人類の戦争の起源と、現代社会で新たに芸術が果たすべき真の役割を考察する。
コミュニティ形成のために
社会における芸術の役割の二つ目が、「コミュニティ形成や維持のための役割」だ。
先年、大きく話題となった『サピエンス全史―文明の構造と人類の幸福』(上下巻、ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)の前半部分には、「認知革命」という言葉が頻繁に登場する。
ちなみに従来の「認知革命」は通常、1950年代以降の認知科学の発展と、そこから派生するさまざまな知的運動を指してきたと思う。
しかし『サピエンス全史』で使われる「認知革命」とは、文字通り、7万年前あたりに起きたとされるホモ・サピエンスの認知能力の革命的な変化を指す。
その核心部分は「虚構を共有する能力」だ。私たちは他の動物が持たない、この虚構を信じる力とそれを共有する力によって、宗教や国家や貨幣といったさまざまな制度を生み出してきた。
霊長類研究者の山極壽一氏は、『共感革命―社交する人類の進化と未来』(河出新書、2023年)において、この認知革命論を土台としながら、さらに「認知革命」の前には「共感革命」があったのではないかと指摘している。
他の類人猿よりも身体能力の劣る人類が、ジャングルを出て危険の多いサバンナに降り立って生きていくためには、群れで生活し互いに協力し合う必要があった。そのためにホモ・サピエンスの登場以前から、ヒトは「共感力」を発達させてきた。
言語の獲得より前に、おそらくヒトは、ダンスや歌で身体のリズムを他者と同調させ、コミュニケーション力を発達させてきたのではないか。また、直立二足歩行により道具を扱うとともに、人類は食べ物を仲間のところに「運ぶ」ことが可能になった。一つの食卓(おそらく最初は火)を囲み、食事を仲間と分かち合うのはヒトだけがとる行動だ。
やがてホモ・サピエンスが世界を席巻し、「認知革命」の広がりとともに、ダンスや歌は少しずつ様式化され、祭りや芸能の起源となる。これは考古学的な視点からも人類学的な視点からも明らかだ。
世界中で発見される集落の遺構には必ず祭りを執り行ったであろう広場が見られる。あるいは現存する、どのような奥地の集落を訪ねても、それぞれの共同体において何らかの祭祀が確認される。
コミュニケーションの視点から見た演劇の起源
私は特に演劇の起源をコミュニケーションの視点から、さらに以下のように説明してきた。
およそ人間だけが、家族と群れという二つの共同体に所属する。チンパンジーは群れで行動するし、ゴリラは家族単位で行動する。そのどちらにも属するのはヒトだけだ。
厳密に言うとゲラダヒヒという特殊な霊長類がいて、この猿だけは家族と群れの両方に所属する。ヒトと同じように、群れの中に家族があると言い換えてもいい。ただ、このゲラダヒヒの話をし始めると長くなるので、ここでは割愛する。
繰り返す。私たち人間は、家族と群れという二つの共同体に属する。そこで私たちの共同体では、何かを経験した人と、していない人という情報の格差が生まれる。
だから、お父さんが狩りから帰って来たら「今日、こんな大きなマンモスがいてさ」と家族に伝えなければならない。ゴリラの家族に、こんなことは起こらない。
マンモスを見るときは(ゴリラはマンモスを見られないけれど)、家族みんなが同じように目撃するからだ。だから、それをわざわざ「伝える」必要はない。
お父さんが狩りに出かけるときには仲間たちに、「今度、5人目の子どもができるので、今日は多くの肉を持って帰らなければならない」と事情を説明しなければならない。
チンパンジーの群れでは、こんなことは起こらない。子どもは母親から離れたあとは、どこかの群れの一員となるからだ。
ヒトだけが、他者に自分の経験を「伝える」。
そして当然、その伝え方には優劣があるだろう。「今日、こんなに大きなマンモスがいた」とは、いったいどれほどの大きさなのか。言葉や身振りで伝える者、あるいは絵で示す者もいたかもしれない。足音で伝える者、ダンスで伝える者。それらが芸能の起源となったのではないか。

