(本紙主幹・奥田芳恵)
●順風満帆に見えた創業期を直撃したリーマンショック
奥田 ソフトウェアテストというユニークな分野に特化して上場されたわけですが、なぜこのビジネスを選ばれたのですか。
田中 それまで別のソフト開発の会社を経営していました。ただ、15年間やっても売り上げは8億円弱までしか伸びなかった。同じような規模のソフト会社は数多くあって差別化も困難、規模も小さい。このままではIPOは無理だと思ったんです。そこで、2004年に大阪でバルテスを創業しました。
奥田 IPOにはこだわっていらしたんですね。
田中 起業して上場会社の社長、というのは一つの夢でしたから。
奥田 立ち上げ当初の業績はいかがでしたか。
田中 初年度の売り上げが5000万円、翌年が2億円、3年目が5億円、4年目が10億円と順調に拡大していきました。ちょうど世の中がアナログからデジタルへ移行する時代でした。テレビやカメラ、ビデオカメラ、複合機と、なんでもデジタル化です。デジタルになるとソフトが必要になる。当然、きちんと動くか、といったチェックの需要が急拡大します。まさに引く手あまた。とてもいい滑り出しでした。ただ、調子に乗ってはあきまへんね、リーマンショックです。
奥田 影響は大きかったですか。
田中 大赤字です。顧客だった製造業が冷え込んでしまって、メインだった組み込み系のテスト事業が大打撃を受けました。幸い、Web系システムのテストもやり始めていたので、そちらに全面的にシフトしました。エンタープライズ系の大型案件も入るようになって、何とか乗り切れました。
奥田 少し我慢すれば製造業も戻ってくるとは思われなかったんですか。
田中 生産拠点の海外移転が進み、国内製造業の投資環境は変わりつつありました。そこで頭を切り替えて、別の業界を攻めることにしたんです。時代の流れについていかないと。
奥田 対象をすぐ別の業界にシフトするのは難しいのでは?
田中 確かに組み込み系とWebやエンタープライズでは、手法がちょっと違ったりします。社員教育はカリキュラムをつくり替えてやり直しです。いったん沈み込んで、現実を見つめなおして仕切り直し。ひとまず売り上げは落ち込んでも、やらなければ勝ち残れないと断行したんです。
奥田 田中さんご自身もずいぶんご苦労されたのではないですか。
田中 当時、大阪、東京、横浜、名古屋に拠点を設けていました。大阪中心のビジネスでしたが、やはり東京だと。1年間ウイークリーマンションを借りて、どっぷり営業です。夏場、革靴が汗で白くなるほど動き回りました。生きるか死ぬか、でしたからね。
奥田 危機にあっても攻めの姿勢を保っていらっしゃったのは素晴らしいですね。
田中 チャレンジしなければ大きなことはできませんし、危機は乗り越えられない。やるか、やらないかなら、やったほうがいい。つらいのは一瞬です。
奥田 その時、社員の方々にはどんな対応をされたんですか。
田中 全社一丸とならなければ乗り越えられない状況でした。社員には「1年だけ給与の一部をカットさせてほしい」と頭を下げました。幸い、1年で黒字に戻すことができました。カットした分は、次期の決算賞与としてお戻ししました。もともと、そうしようとは思っていたんです。
奥田 社員の方々からすれば、会社に対する信頼感はとても高まりますね。
●祖父と父から受け継いだ 起業家の遺伝子
田中 商売って、何を得るものだと思われますか?
奥田 お金、ではありませんよね。さて、なんでしょう。
田中 人です。人を稼がないとお金にならない。この会社に勤めてよかったと思えるような人を集めないといけない。人が財産なんです。商売って難しいんです。
奥田 給与カットのお話からも、社員の方々をとても大切にされているのがよく分かります。よくコミュニケーションを取られているんですか。
田中 先日も自宅でワイン会をやりました。参加者も2年目の若手から4~5年目、年配の社員と幅広かったです。「オーパス・ワン」も開けたんですよ。
奥田 ご自宅でワイン会! 結構お好きなんですね。
田中 お酒を飲んでワイワイ、というのは大好きです。あとから気が付いたんですが、実はもっと高いワインを開けちゃっていました。ほかには、各拠点で時々開くバーベキューの会なんかに顔を出したりしています。クラブ活動への支援なんかもしているんですよ。単に人を雇用するというのではなく、人の心も豊かになってもらいたい。不満を抱えたまま働くより、心豊かな状態で働いてもらいたいんです。
奥田 お若いころから経営者になろうと思っていらしたんですか。
田中 祖父や父から受け継いだ起業家の遺伝子があるんです。祖父は昭和初期に自動車修理工場を立ち上げて、戦前・戦後を生き抜いて成功させました。父は、長男なので継ぐはずだったんでしょうが祖父と喧嘩し、結局、鉄工所を創業しました。長男の私も小学生の頃から、夏休みや冬休みにはサビ止めを塗ったりして手伝っていました。
奥田 それでも、家業は継がずに起業されたんですね。
田中 工業高校の情報処理科出身なんです。電子工学全盛の当時、情報処理科は人気もなく、見向きもされませんでした。ただ、私はプログラミングには興味があり、向いていると思いました。言語はCOBOLで、先生の言うこともよく理解できたし、ほかの生徒がちんぷんかんぷんでも、サポートしたりしていました。せっかくなので、学んだことを生かそうと思ったんですね。それで、小さなIT系の会社に入って開発業務に携わりました。ちょうど4年で「卒業」したので、私にとっては大学みたいなものでした。(つづく)

