限定的すぎる新キャラの活躍、ポセイドンが底の浅い印象に
それでも前半部は『海底鬼岩城』のキモを押さえた冒険を楽しく見られたのだが、問題は後半部だ。個人的に厳しかったのが、「追加されたキャラやセリフが不自然で、かつ物語を面白くする機能を果たしていない」ことだった。
具体的には新たなキャラクターとして「トリライン」という地底人の老婆が登場するのだが、その役割は「逃げたドラえもんたちの手助けをしてくれる」という表面的かつ限定的なものにとどまっている。
そのトリラインが女性ということは、終盤でのしずかの「女の子のほうが相手が油断する」という言葉にリンクしているのだが、かなり無理やりな理屈づけに思えてしまう。さらに大ボスのポセイドンが「我に女性の情報が少ない」というセリフを口にするのも、まるで人間関係をRPGのステータスのように理解しているかのようで、威厳あるラスボスというより軽薄で底の浅い印象を与えてしまう。さすがに余計なセリフに思えてしまった。
さらに、地底人の青年戦士である「エル」が、法廷で「心」というワードを新たに付け加えて訴えようとすることにも違和感があった。声優が一新してからのドラえもん映画では「良いことを言おうとするセリフが直接的すぎて、説教くささを助長するばかりか、欺瞞めいたものを感じてしまう」ことが気になっていたのだが、今回も残念ながら例外ではなかった。
一方で、「海底でキャンプってレア度高いかも!」というセリフや、ドラえもんがのび太を応援する様が「推し活」風になっていたり、水の中で用を足すとあたりに混ざってしまうと知りみんなで「ウェー」と言いながらじゃれるといった、物語に大きく影響し得ない部分での現代的なアレンジは面白く見られた。セリフや演出の変更は、その程度にとどめても良かっただろう。
バギーの言動の不自然さと「おじさん声ではない」ことで失われてしまったもの
『海底鬼岩城』で何が最も印象に残るかといえば、多くの人が「水中バギー(バギーちゃん)」を挙げるだろう。「生意気で、しずかちゃんにだけデレデレする調子の良いやつだけど、終盤には涙を禁じ得ない決死の行動を取る」という、ドラえもん映画の中でも屈指の名キャラクターであることに異論はまったくない。
だが、今回のリメイクでは、そのバギーの言動にも不自然さが生じていると思えた。具体的には、いくら中古のポンコツとはいえ、あれほどの海やレアメタルへの知識があるAIが、「友達」というワードを知らないというのは、いくらなんでも無理がある。
ここでも前述もした「良いことを言おうとする」ことが結果的にノイズになっている。そもそも、バギーとの友情を強調するがためにのび太と一緒に寝たりすることで、「しずかちゃんに対してだけ調子が良い」というバギーの卑近さが、結局は失われてしまっていないだろうか。
さらに、「人間の理不尽な行動はバグみたいなもの」「正解と正しさは違う」といったバギーとの会話も、深い言葉のようで、実際は上滑りをしていると感じてしまった。
確かに「ロボットには理解し得ない不合理な人間の行動」を示すセリフには、例えば『のび太の鉄人兵団』でのしずかの名台詞「ときどき理屈にあわないことするのが人間なのよ」などもあり、藤子・F・不二雄作品の精神に通じる発想ではあるのだろう。
だが、そうだとしても、もう少しだけでも納得しやすい言葉選びはできなかったのだろうか。そもそも、そういうセリフを入れなくても、『海底鬼岩城』という作品は、最後のバギーの決死の行動でこそ、その「理屈にあわないこと」を描き切れていたと思うのだ。
さらに、今回のバギーの声が「女の子または子どもに聞こえる声」ということも、個人的にはキャラクターのイメージを大きく変えてしまった印象がある。もちろん今回の広橋涼の声のバギーも愛らしく、今の時代のAIスピーカーに近い印象もあり、このほうが今の子どもには受け入れられるかもしれない。
しかし、それはやはり旧アニメ版の、三ツ矢雄二が醸し出す魅力とは大きく異なる。その声に宿る「不憫(ふびん)さ」は、例えるなら「くまのプーさんがおじさんの声だからこそ、成長をしない、どうしようもないやつに思える」ことにもかなり近い。もちろん個人的な好みによるところが大きいのだが、「バギーちゃんの声はプーさんのようなおじさんであってほしい」と思ってしまった。
一方で、バギーに関する良いアレンジと思えたのは、「小さいサイズになることでより身近に存在を感じさせる」ことや、「前の持ち主からはぞんざいな扱いをされていた過去」の描写だった。こうしたところで、キャラクターの背景に深みを持たせるのは、良いアプローチだろう。

