・女方はなぜ生まれたのか
こうした視点の違いは、女方という存在にも表れているように思います。韓国の伝統芸能では、男性が女性の役を演じるという文化はあまり見られません。
しかし歌舞伎の女方は、単に男性が女性を演じているわけではありません。むしろ理想化された女性の姿を表現するための、独特な芸の形とも言えます。
一方で韓国の伝統芸能では、性別そのものがそれほど重要視されないことも多いです。パンソリやタルチュムの舞台では、役の性別よりも、物語や表現そのものが重視される場合もあります。
そのため韓国の観客にとっては、女性の役は女性俳優が演じるのが自然だと感じられるかもしれません。そうした視点から見ると、「なぜ男性が女性を演じるのか」という疑問が生まれるのも自然なことだと思います。
こうした文化的な違いが、映画の受け止め方にも影響しているのかもしれません。
・なぜこの物語は歌舞伎でなければならなかったのか
しかし不思議なことに、私はこの映画を観ながらそうした違和感をあまり感じませんでした。
むしろ印象に残ったのは、歌舞伎という伝統芸能そのものよりも、一人の人間が芸に人生を捧げていく姿でした。
女方という存在に馴染みのない観客にとっては、「なぜ歌舞伎でなければならないのか」という疑問が残るかもしれません。
芸に執着する物語であれば、他の芸術でも成り立つのではないか、という意見もあるでしょう。
しかし私は、この映画はやはり歌舞伎でなければならなかったのではないかと思います。
歌舞伎の世界では、家の名前がそのまま芸の名前になり、その名前が俳優の立場や役柄にも影響します。だからこそ、名門の家系ではないキクオと名門の家に生まれたシュンスケとの対立は、より強い意味を持つのではないでしょうか。
さらに女方の芸は、単なる演技ではありません。声の出し方や視線、動き、呼吸に至るまで細かな様式が求められる、とても繊細な芸でもあります。そうした特徴があるからこそ、『国宝』という物語は歌舞伎という芸能の中でこそ強く成立しているように感じました。
ある観客にとっては、歌舞伎の伝統は少し奇妙に見えるかもしれません。
しかし映画『国宝』は、それを無理に説明したり正当化したりしようとはしていないように思います。むしろ、その矛盾や執着も含めて、歌舞伎という芸の世界を静かに映し出しているだけなのではないでしょうか。
文化の違いは、ときに違和感として現れます。しかし、その違和感こそが、異なる芸術の世界を知るきっかけになるのかもしれません。
執筆:カン・へジュ(KANG HYEJOO)
Photo:Rocketnews24
