
誰しも年をとると物忘れが増えるものだと思いがちですが、その原因は本当に脳だけにあるのでしょうか。
アメリカのスタンフォード大学(Stanford)などで行われた研究によって、老化に伴う記憶力低下が「お腹発」の新しい経路で起こりうる可能性をマウスの実験で示しました。
研究内容の詳細は2026年3月11日に『Nature』にて発表されました。
目次
- 物忘れの原因は「お腹」かもしれない
- なぜ腸の変化が脳の記憶力を奪えるのか?
- 物忘れ対策は「脳の外」にもある
- 【専門家向け】「P. goldsteinii」は完全な悪玉菌なのか?
物忘れの原因は「お腹」かもしれない

「あれ、昨日の晩ご飯は何だったっけ?」と考え込む――誰しも歳をとればこんな物忘れが増えるものだ、とよく言われます。
けれども現実には、周りを見渡せば80歳でも記憶力がしっかりしている人がいる一方で、60代から物忘れに悩む人もいます。
この違いはなぜ生まれるのでしょうか。
その理由を探るため、近年の研究では脳そのものだけでなく、腸の中に無数に存在する細菌(腸内細菌)の働きにも注目が集まっています。
腸は単に食べ物を消化する臓器ではなく、脳と情報をやり取りしています。
この腸と脳のつながりは「腸脳相関」と呼ばれています。
「頭」の悩み事が「胃腸の不調」として現れるのも腸と脳がつながっているからです。
また過去に行われた研究では腸内細菌叢(腸にすむ細菌の集まり)が学習や記憶に影響を及ぼすことを示す研究も報告されています。
さらにアルツハイマー病など認知機能が低下した人では、腸内細菌の種類やバランスが健康な人とは異なることが報告されています。
ただし、ここには大きな問題がありました。
それは「腸内細菌の違いが原因なのか、それとも結果なのか」という点です。
つまり、記憶力が落ちたから腸内細菌が変わったのか、それとも腸内細菌の変化が先に起きて脳に影響したのか、はっきり分からなかったのです。
そうした中、スタンフォード大学の研究チームは、この疑問に答えるため、まず若いマウスと老いたマウスを一緒に飼育し、自然に腸内細菌を共有させました。
また別により直接的な方法として、高齢マウスから採取した腸内細菌を若いマウスに移植してみたりしたのです。
つまり、「体は若いのに、腸内細菌だけは老けている状態」を人工的に作り出して、記憶力のテストを行いました。
すると驚いたことに、腸内細菌が高齢マウスに近づいた若いマウスは、見慣れた物と新しい物を見分けるテストや、迷路の位置を覚えるテストの成績が明らかに落ちたのです。
しかも、若いマウス同士を一緒に飼っただけでは同じ低下は起きず、単なる同居ストレスでは説明しにくい結果でした。
さらに新しい物体を以前ほど優先して見なくなりました。
この結果は、年齢とともに変化する腸内細菌が、マウスでは記憶力低下の原因の一つになっていることを支持したと言えます。
つまり、「腸内細菌は脳の老化の単なる結果」ではなく、「マウスでは脳の記憶力低下の原因の一つになり得る」と確認されたわけです。
しかしなぜなのでしょうか?
老いたマウスの腸内細菌はいったいどんな仕組みで若いマウスの脳機能を低下させていたのでしょうか?
なぜ腸の変化が脳の記憶力を奪えるのか?

研究チームが次にやったことは、どの腸内細菌が記憶力低下を起こしているのか、その「真犯人」を突き止める作業でした。
腸内には数え切れないほど多くの細菌がいるのですが、もちろんすべての細菌が悪さをしているわけではありません。
そこで、マウスの腸内細菌をずっと追跡調査して、年齢とともに増えやすく、しかも若いマウスに伝わって記憶力を落とすような菌を探しました。
すると、浮かび上がってきた最有力容疑者「パラバクテロイデス・ゴールドスタイニー(P. goldsteinii)」という細菌だったのです。
研究チームは、この菌だけを若いマウスに与えても、記憶力が落ちることを確認しました。
一方で、同じように年齢とともに増える他の細菌を与えたときは、この記憶低下は起きませんでした。
つまり、今回の研究はただ単に「年をとったから腸内細菌が悪くなった」という話ではなく、「パラバクテロイデス・ゴールドスタイニーを含む特定の菌が増えたことが、有力な要因の一つだった」わけです。
では、この「犯人」の細菌はいったいどんな方法で脳に影響を与えていたのでしょうか?
実は、この細菌そのものが脳に侵入して暴れ回っていた、というわけではありません。
研究者が注目したのは、この細菌が腸の中で作り出す「中鎖脂肪酸」という脂肪酸の一種でした。
たとえるなら、これは細菌が腸の中でまき散らした「迷惑なゴミ」のようなものです。
実験によれば、このゴミ(中鎖脂肪酸)をマウスに与えただけでも、脳の記憶を担当する「海馬」という場所の反応がガクンと落ちてしまったのです。
では、腸にまかれたゴミが、どうして遠く離れた脳の記憶にまで影響を与えるのでしょう?
ここで鍵となるのが「迷走神経」という神経です。
「迷走神経」というのは、わかりやすく言うと「腸と脳をつないで情報をやりとりする電話線」のような役割を持っています。
普段、私たちがお腹いっぱい食べたり、胃がムカムカしたりすると、その情報は腸から脳に電話で伝えられます。
そして脳はこの電話を受けて「今こんな状況なら、ちょっと休もうかな」とか「じゃあ次はこうしよう」と判断しています。
ところが、今回の高齢マウスや、高齢マウスから腸内細菌をもらった若いマウスでは、この「電話線」の反応がかなり弱くなっていたのです。
若くて健康なマウスなら、腸の状況が脳へスムーズに伝わります。
ですが、問題の脂肪の粒(ゴミ)が増えた腸では、電話線の調子が悪くなり、「大切な情報」が脳にちゃんと届かなくなってしまったのです。
そして、肝心な情報を受け取れない脳の「海馬」は、「あれ?大事な情報が届いていないな…」と混乱し、記憶の書き込みがうまくできなくなってしまった、というわけなのです。
さらに研究者が詳しく調べると、この「電話線」が切れかけた理由には、もうひとつ重要な原因がありました。
それが「炎症」です。
細菌が出した脂肪の粒(ゴミ)が腸の中で広がると、それに刺激された免疫細胞が「あれ?何か怪しいぞ!」と警戒して炎症を起こします。
炎症というのは、簡単に言えば体が「何かトラブルが起きているぞ!」と騒ぎ出すことです。
そして、その騒ぎ(炎症)が起きると、腸の近くで「TNF」や「IL-1β」という物質(炎症の目印のようなもの)が次々と出てきます。
しかも、この炎症は脳全体が大騒ぎになるというより、腸の近くで起きる局所的な炎症でも十分に影響したようでした。
ところが、この物質が増えすぎると、迷走神経という電話線の働きが鈍くなってしまいます。
つまり、細菌がまいたゴミのせいで免疫細胞が騒ぎ出し、その騒ぎが腸と脳を結ぶ電話線(迷走神経)を弱らせ、結果として脳の記憶力まで落ちてしまったわけです。
まとめると
「年を取った腸で特定の細菌が増える➔細菌が脂肪酸をばらまく➔その脂肪酸が腸の免疫細胞を刺激して炎症が起きる➔炎症が電話線(迷走神経)を弱らせる➔脳の記憶場所(海馬)に情報が届きにくくなる➔記憶力が落ちる」
という感じです。
「物忘れ」という脳の問題が、実はかなり遠い腸の中から始まっていた、という意外な仕組みが今回の研究で示されたのです。

