
人は、状況によって振る舞いを変えています。
たとえば、職場では落ち着いて話す人が、親しい友人の前ではよく笑い、趣味の場ではまったく別の熱量を見せることもあります。
こうした違いは、単なるその場しのぎの演技というより、人のアイデンティティがもともと複数の側面からできていることの表れだと考えられています。
米ハーバード大学(Harvard University)医学部のエリザベス・マティアー氏は、脳科学、創造性、現代のアイデンティティの交差点を探る立場から、「人は一つの固定された自分だけでできているわけではない」と解説しています。
今回のテーマは、その複数の側面が、心の安定や柔軟さ、さらには創造性にも関わっている可能性がある、というものです。
目次
- 人はもともと複数の「自分」を持っている
- 柔軟な自己は幸福度を高め、発想の幅も広げる
人はもともと複数の「自分」を持っている
私たちはつい、「本当の自分はどれなのか」と考えがちです。
けれど心理学では、人のアイデンティティは一枚岩ではなく、いくつもの側面が組み合わさってできていると考えられています。
たとえば、ある人は仕事では専門職として振る舞い、家では親や子どもとして生活し、友人の前ではまた別の顔を見せます。
さらに、趣味の場では走る人、音楽を楽しむ人、旅を愛する人としての側面が立ち上がるかもしれません。
こうした複数の顔は、ばらばらなものではなく、その人の全体を形づくる大切な要素です。
この点を社会学の立場から検討したのが、ペギー・ソイツの研究(1983年)です。
彼女は、人が持つ社会的な役割やアイデンティティが多いほど、心理的な苦痛が少ない傾向があることを示しました。
ここでいう役割とは、親、友人、同僚、地域の一員、趣味仲間など、社会の中で自分が占める位置のことです。
なぜそれが心の支えになるのでしょうか。
分かりやすく言えば、自分の土台が一つに集中しなくなるからです。
もし「自分は仕事で成果を出す人間だ」という一点だけで自分を支えていると、その領域でつまずいたときに、失敗以上の打撃を受けやすくなります。
仕事の問題が、そのまま「自分には価値がない」という感覚につながってしまうからです。
ですが、その人が同時に「家族の一員としての自分」「友人としての自分」「学び続ける自分」「趣味を楽しむ自分」も持っていれば、一つの領域が揺らいでも、自分全体まで崩れずにすみます。
つまり、複数のアイデンティティは、心への衝撃をやわらげる足場のような役割を果たすのです。
人は一つの肩書きだけでできているわけではありません。
そのこと自体が、実は大きな強みなのかもしれません。
複数のアイデンティティをもつメリットは他にもあります。
柔軟な自己は幸福度を高め、発想の幅も広げる
「一つの自分に閉じこもらないこと」が大切だという見方は、心理療法の研究からも補強されます。
近年よく知られるようになったアクセプタンス&コミットメント・セラピーでは、心の健康にとって重要なのは「心理的柔軟性」だと考えられています。
これは、状況に応じて考え方や行動を調整し、不安や迷いがあっても、自分にとって大切な方向へ進める力のことです。
ここで大事なのは、「嫌な気持ちを完全になくすこと」ではありません。
不安や失敗の可能性を抱えたままでも、自分の価値観に沿って行動できることが重視されます。
既存研究をまとめたレビュー(2025年)でも、心理的柔軟性の高い人は、不安や抑うつ、強いストレスに振り回されにくい傾向があると整理されています。
この考え方は、アイデンティティの問題ともよく重なります。
自分を「こういう人間だ」と狭く決めつけすぎると、変化に弱くなります。
逆に、「自分にはいろいろな面がある」と認められる人は、人生の変化に合わせて立ち位置を調整しやすくなります。
こうした柔軟さが、心の安定につながると考えられるのです。
さらに面白いのは、複数の側面を持つことが、創造性とも関わっている可能性です。
2024年の研究では、異なる分野どうしを結びつけて考える力が高い人ほど、創造性も高い傾向が示されています。
研究では、参加者に発想力をみる課題や、異分野のつながりを見つける課題を行ってもらい、脳のネットワークの結びつき方との関係も調べました。
その結果、重要だったのは、脳全体がただ強くつながっていることではなく、異なる知識領域を橋渡ししやすい結びつき方でした。
つまり、科学と芸術、技術とデザイン、文章と心理学のように、一見別々に見える世界をまたいで考えられる人ほど、新しい発想が生まれやすい可能性があるのです。
これは、複数のアイデンティティを持つことにも通じます。
仕事の自分と趣味の自分、論理的な自分と感覚的な自分は、互いに邪魔し合うものではありません。
むしろ、それらが交わるところで、新しい見方や表現が生まれることがあります。
「本当の自分は一つだけのはずだ」と思うと、人は自分を狭い箱に押し込みやすくなります。
ですが研究が示しているのは、人間はもともともっと多面的で、その多面性こそが、変化に折れにくい心や、新しい発想を生む土台になりうるということです。
仕事の自分も、家族の中の自分も、趣味に夢中になる自分も、どれか一つだけが本物なのではありません。
その全部が重なって、私たちという人間をつくっているのです。
参考文献
Why You Don’t Have to Choose Just One Version of Yourself
https://www.psychologytoday.com/us/blog/the-architecture-of-identity/202603/why-you-dont-have-to-choose-just-one-version-of-yourself
元論文
Acceptance and Commitment Therapy and Psychological Well-Being: A Narrative Review
https://doi.org/10.7759/cureus.77705
Cross-domain analogical reasoning ability links functional connectome to creativity
https://doi.org/10.22541/au.172165110.02797509/v1
Multiple Identities and Psychological Well-Being: A Reformulation and Test of the Social Isolation Hypothesis
https://psycnet.apa.org/doi/10.2307/2095103
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部

