村瀬秀信氏による人気連載「死ぬ前にやっておくべきこと」。富士そばハンターのなかやまをインタビュー(中編)。“珍そぼ”に対する熱い思いをたっぷり語っていただいた。
沖縄出身の男が立ち食いそばに出会うまで
そばは嫌いだった。
1983年、沖縄県沖縄市。那覇から北へ車で30分ほどのその街で、なかやまは生まれた。そこには立ち食いそばという文化はない。そばといえば豚骨と鰹のスープに太い麺の沖縄そばがすべて。大学まで沖縄で過ごしたなかやまが、その細くてつるっとした異国のそばと初めて出会うのは、就職で上京するまで待たなければならない。
「最初の立ち食いそばは平和島の個人店でした。社員寮の近くにあって、一杯400円程度。そこで初めて食べた日本そばは…ダメでした。当たり前ですが沖縄そばと全然違う。味も『しょっぺえ!』って感じで、ハッキリ言って、おいしくなかったですね」
第一印象は最悪だった。そう語るなかやまが、そば色に汚れていなかった当時の自分を思い出したのか、ふっと笑みを浮かべた。この男は今や1000杯以上の富士そばに人生を染められた超越者である。
この若者が、珍そばの業に絡み取られていくきっかけとなったのは26歳での編集プロダクションへの転職だった。雑誌から企業のフリーペーパーなど何でも屋としてキャリアを積む中で、企業やチェーン店の「ファンブック」が世に出始めていた。ブラックサンダーやハードオフ。マニアが愛するブランドを一冊にする企画書に、なかやまはなぜか「富士そば」を提言した。
「全然富士そばのことも好きじゃなかったんですけどね。ただ、東海林さだおの『偉いぞ! 立ち食いそば』(文藝春秋)を読んだときに、富士そばの丹(道夫)社長(現会長)の話があった。そこで知るんです。富士そばは『店長の裁量で店によってまるで個性が異なる』ということを。この奇妙なシステムに惹かれてファンブックを提案したのですが、上司からは即却下。『誰が読むの? まず富士そばに通ってる人間は読まないよ』と。ごもっとも、です。さらに『ファンブックだったら専門家が書かないと意味がないでしょ』とも言われましたね。まあ、そりゃそうだ。ぐうの音も出ない。ここで1回、富士そばとの縁は潰えました」
3年後、なかやまは編プロを退職し、フリーライターとなる。しかし、根回しもせず外に飛び出してしまったフリーに仕事などあるわけもなく、バイトをしながら少ない書き仕事でなんとか糊口を凌いでいた。
「完全な準備不足でした。そして、やっぱり仕事を取るには専門性を持たなければいけないと痛感したんです。世を見渡せばラーメンライター、焼肉ライターなどがいる。そういう得意分野があると強いじゃないですか。でも、そういった人気ジャンルにはもう先人がいる。もっとニッチなところにいかなければいけない。何が残っている。必死で考えた。立ち食いソバ。いけるかも。でもいるなぁ。もっとニッチに。そうして僕が選択してしまったのが、富士そばでした」
【死ぬ前にやっておくべきこと】アーカイブ
市ヶ谷で出会った「肉トマトそば」が人生を変えた
なかやまの瞳はかえしのようにどす黒く、キラキラと澄んでいた。初手で怪物を掴んでしまった自虐と、12年も一緒に歩んできてしまった諦めを、すべて昇華しきったような美しさだった。
富士そば。その中の、一般メニューではない、”珍そば”という深淵。狭すぎて誰も気づかない。深すぎて底が見えない。絶海の孤島に生まれ落ちていたことにまだ気づかない富士そば探偵団は2014年、ついに道なき登山道を歩みはじめた。
「富士そばが好きだったわけでも全然なくて。ただ誰もいないブルーオーシャンがそこにあったという短絡的かつ不純な発想です。ファンブックを企画した際に上司に言われた専門家に『俺がなればいいじゃん』と思ってしまったのも心のどこかにあったんでしょうね。イチから富士そばのライターになるからには、まず一周しないと始まらないと思い、全店制覇の旅に出ることにしました。そこで出会ってしまったんです」
ある日、何気なく入った市ヶ谷の店で、見たことのないそばに遭遇する。
「冷たいそばの上にトマトピューレと肉が乗っている。『肉トマトそば』。よくこんなもの出したなと思って食べてみたら、衝撃でした。味はまずくはない。うまいのかもしれない。ただ、確実なことは、面白かった」
誰が、何を考えてこれを作ったのか。どうしてチェーンの立ち食いそばが、こんな実験的なものを出せるのか。考えれば考えるほどおかしい。これは”珍そば”だ。なかやまは興奮が醒めやらぬうちにブログ『富士そば原理主義』を開設。そこからのなかやまは、富士そばのさらなる深淵、珍そばの収集に明け暮れる。
「全店制覇を達成したのは1年半後。”富士そばライター”を名乗れると思ったんですけどね、2年目で気づくんです。富士そばの、さらにニッチな珍そばに詳しくても仕事にはならない、と。でも辞めようともならなかったんです。『これは趣味なんだ』と、仕事と切り離した瞬間から、もっと自由になれた気がしました」
辞める理由もなかった。30代前半のなかやまには時間だけがあった。ライターの仕事は順調に軌道に乗り始めていたが、仕事以外の時間のほとんどを富士そばに使い、ブログやSNSに獲得した珍そばを遺していく。その収集は一銭にもならなかったが、何かとてつもないものを積み上げている予感だけはあった。
「お金とかじゃない。恋愛みたいなものでしたよ、あの頃は。とにかく夢中で、富士そばのことしか考えてなかった」
その熱狂がピークに達したのが’19年。新宿三光町店が、ある珍そばを世に放った瞬間だった。
(後編へ続く)
取材・文/村瀬秀信
「週刊実話」3月26日号より
