今の限界と見えてきたこと

ここまで読むと、「ついにハエをまるごとコンピューターに入れたのか!」と思うかもしれませんが、実はそう簡単ではありません。
会社自身も正直に「まだ発展途上」だと認めています。
たしかに今のモデルでは、歩く、食べる、身づくろいするといった「ハエっぽい動作」は再現されています。
しかし、本物のハエが持つ行動の複雑さに比べれば、これらはごくわずかな種類の動きに過ぎません。
また脳の中身についても、100%完璧に、寸分たがわず再現したわけではありません。
ハエが何かを覚えたり、学習したりする仕組みもほぼ入っておらず、視覚情報の多くも行動への影響がまだ限られています。
お腹が空いているのか満腹なのか、危険な経験をしたばかりかどうか、といった生き物としての「内側の状態」――つまり脳内の神経伝達物質の細かな要素も十分には考えられていません。
それでも、このニュースを軽く見てはいけません。
今回の実演は「仮想の脳の中で起きていたこと」を、体の動きとして外へ出せることを示したからです。
また今回の研究を通じて「脳の配線の形そのもの」が驚くほど多くの行動の骨格を持っていた可能性が見えてきた点も見逃せません。
完璧なものとは言えませんが、画面に映るハエは人間から見ても「ハエらしい行動」をとっていました。
実際同社は、使ったのは、神経細胞どうしのつながり方、つながりの強さの目安、興奮させるか抑えるかという神経の性質、そしてごく単純化した神経細胞の発火の計算ですが、この仮想ハエはそんな単純な材料だけで91%の行動一致率を出したと報告しています。
(※ここでいう91%は、元の Nature 論文で報告された 164件の予測のうち91%が実験結果と一致したという意味です。)
言いかえると、細かな生化学の再現を全部盛り込まなくても、脳の配線そのものに、行動を形づくる情報「ハエっぽい動き」がかなり深く刻み込まれている可能性が見えてきたわけです。
ここは、脳研究としても、将来の脳アップロード論としても、かなり刺激の強い点です。
実際、イーオンはこのデジタルのハエを「本物のアップロードされた動物」だと言い切りました。
ただ、それが何を感じているかは誰にも分からない、とも同時に認めています。
また今回の成果は、脳をまねる技術の見え方を少し変えます。
これまでは「本物らしい行動を出すには、脳の中の細かな化学反応や学習の積み重ねまで全部入れなければ無理なのではないか」と思われがちでした。
もちろん最終的には、そうした要素も重要です。
ただ今回の結果は、その前の段階として、脳の大きな配線図だけでもかなりのところまで感覚と運動の流れを作れるかもしれない、と示しました。
会社が「これは小さな改善ではなく、一つの境目だ」と強い言葉で語るのも、そのためです。
ハエの次はマウスへ!この技術はどこまで行けるのか?
では、この「脳のコピーで動く技術」は、今後どこまで進むのでしょうか?
イーオン・システムズが次に狙っているのは「マウスの脳」です。
マウスの脳はハエの脳よりもはるかに複雑で、神経細胞の数はおよそ7,000万個と、ハエの約560倍にもなります。
当然ですが、これは一気にハードルが上がります。
しかしイーオンの研究チームは、次の段階に向けて、マウスの脳の詳細な配線図を作るためのデータを集め始めています。
実際にマウスの脳の中で神経がどのように活動するのかを詳しく記録し、「動くマウス脳」をデジタル空間に作り出そうというわけです。
会社は「ハエで感覚と動きの輪を作れたのだから、次のマウスが成功するかは『ハエでやったことを大きくしていく』というスケールアップの問題だ」と考えています。
この見立てが当たれば、話は一気に変わります。
脳の「配線の形」が情報のかなりの部分を抱えているのなら、必要なのは超精密な一細胞の再現ではなく、巨大な配線図と、それを動かす計算資源の拡大になります。
もちろん、ハエからマウスへの飛躍は簡単な話ではありません。
ましてや、その先にある「人間の意識をコンピューターに移す」というSFのような話までをすぐに信じ込むのは早すぎます。
それでも今回のハエの成功には、決して小さくない重みがあります。
イーオンは今回の存在を「本当にアップロードされた動物」だと呼んでいます。
これまで空想科学やSFの世界で語られていた「脳のアップロード」という夢物語が、たとえ小さなハエの姿だとしても、はっきりとした現実の映像になったのです。
長いこと夢だった「意識のデジタル化」という大きな問いは、空想だけで片づけられない段階に入りつつあるのかもしれません。
ですが研究者たちの目標はそこでは終わりません。
イーオンは自分たちの取り組みを、挑戦的な言葉で飾ります。
「脳アップロード」という表現も、その一つです。
実際、同社は最終的に人間規模へ向かう道を示唆しています。
だからこそ、この話題は科学のニュースであると同時に、社会のニュースにもなります。
ただ人間の脳アップロード前に別の問題も立ち上がるでしょう。
たとえば、計算の中で動く生き物が当たり前になったら、私たちはそれをどう扱うのでしょうか。
痛みや苦しみがあるのかないのか、そもそも「感じている」と言えるのか。
今すぐ答えが出る問いではありません。
それでも、目の前で身づくろいをする姿を見ると、完全な無生物として片づけるのは難しくなります。
イーオンも、作り出す存在を気にかけるべきだという立場を示しています。
ここは、技術が進めば進むほど重くなる論点です。
そしてもう一つの利点は、こうした模型が「増やせる」可能性です。
生きたハエは一匹ずつしか存在しませんが、計算の中のハエは、理屈の上では複製できます。
条件を変えた実験を同時に走らせることも考えられます。
これは脳の研究を加速させる可能性を秘めています。
もしかしたら未来のリアルなゲームの中でプレーヤーの周りを飛ぶハエは、単純な繰り返しプログラムではなく、リアルさを出すために脳モデルで駆動しているかもしれません。
もっともその時代には、ゲーム内で全脳モデルで動いているのは、ハエだけではないでしょう。
イヌ、ネコ、ウシ、ウマ、そして自らをプレーヤーだと信じている「何か」でさえも。
参考文献
The First Multi-Behavior Brain Upload
https://eon.systems/updates/first-multi-behavior-brain-upload
We’ve Uploaded a Fruit Fly
https://eon.systems/updates/weve-uploaded-a-fruit-fly
How the Eon Team Produced a Virtual Embodied Fly
https://eon.systems/updates/embodied-brain-emulation
元論文
Neuronal wiring diagram of an adult brain
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07558-y
A Drosophila computational brain model reveals sensorimotor processing
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07763-9
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部

