世代を超えた記憶の継承はあるのか?

ここまでは別の個体同士が直接影響を与え合う話でしたが、ここからは話がさらに広がります。
今度は「世代をまたいで記憶や体験が伝わる可能性」の話です。
つまり、父親の体験が子どもに何らかの形で引き継がれることはあるのか、ということです。
2014年、ある研究チームはオスのマウスに特定の匂いと電気ショックを結びつけて「この匂い=危険」と学習させました。
その後、このオスマウスの子どもや孫の世代を調べてみると、なんと一度も電気ショックを経験していない子や孫たちまで、その特定の匂いに強く反応しやすくなっていたのです。
さらに興味深いことに、子や孫の世代では、この匂いを感知する神経そのものが強化されていました。
育て方だけでは説明しにくく、2014年の研究では体外受精や里親実験から生殖細胞を介した継承が示唆され、2020年の研究では精子に含まれるRNAがその一因になりうることも示されました。
これは「父親の怖い体験」が具体的な記憶として子どもに伝わったのではなく、「特定の刺激に対して敏感になる傾向」が遺伝子とは別の仕組みで子孫に受け渡された、という現象です。
もっと身近な例えをすれば、父親が怖い経験をした時、その「怖かった気持ち」や「匂いそのものの記憶」ではなく、「怖い経験に備えやすいように子どもの脳の設定が変わった」と考えるとわかりやすいでしょう。
遺伝子のように、髪の色や目の色を決めるものとは違いますが、特別な設定変更のようなものが精子を通じて子孫に届く可能性がある、ということです。
実際、2020年の研究では、学習を経験したマウスの精子RNAだけを取り出し、まったく関係のない受精卵に入れるだけで、生まれたマウスが父親と同じ刺激に対して敏感になったことがわかっています。
これもまた「記憶そのもの」ではなく、「刺激への反応性」が伝わることを強調しています。
いま科学が言える、いちばん面白い答え

では最終的に、「ある個体から別の個体に記憶が移ることはあるのか?」という問いに、科学はどう答えるのでしょうか。
いまの科学が出している答えは、「ある意味ではYESだけど、みんなが想像するような派手な意味ではNO」です。
つまり、SF映画のように「昨日の楽しかった記憶」を注射で他人に移す、という現象はまだ確認されていませんし、かなり現実味が薄い話です。
しかし、「記憶そのもの」ではなく、「記憶をつくる土台となる感受性」や「刺激への反応性」、「脳が学びやすくなる状態」のようなものが物質を通じて移ることは、少なくとも動物研究では複数の系で示されています。
アメフラシの実験でも、若い血や血しょうを使った若返りの研究でも、父親の体験が子に伝わる研究でも、伝わっているのは「記憶の具体的な内容」ではなく、「脳の反応を決める設定」です。
例えるなら、記憶というのは映画のようなもので、映画そのものを丸ごと別の人の頭にコピーすることは難しいですが、「その映画が感動的に感じやすくなるように感受性を高める」ことや、「怖いシーンでより強く反応しやすくする」ことなら可能だ、ということです。
これが現代の科学が示している最も面白く、正直な答えです。
記憶そのものはまだ自由に受け渡せませんが、経験が脳だけではなく、血液や細胞の物質を通じて体全体に影響を及ぼし、さらにその一部は子孫にまで影響を残す可能性があるのです。
元論文
RNA from Trained Aplysia Can Induce an Epigenetic Engram for Long-Term Sensitization in Untrained Aplysia
https://doi.org/10.1523/ENEURO.0038-18.2018
Young blood reverses age-related impairments in cognitive function and synaptic plasticity in mice
https://doi.org/10.1038/nm.3569
Human umbilical cord plasma proteins revitalize hippocampal function in aged mice
https://doi.org/10.1038/nature22067
Exercise plasma boosts memory and dampens brain inflammation via clusterin
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04183-x
Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations
https://doi.org/10.1038/nn.3594
Proximate causes and consequences of intergenerational influences of salient sensory experience
https://doi.org/10.1111/gbb.12638
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部

