「地獄に堕ちるわよ」――。強烈な決め台詞とともに、“六星占術”ブームを巻き起こし、2000年代のテレビ界を席巻した占い師の細木数子。全盛期の裏で見せていた弱音や、タッキーこと滝沢秀明との交流秘話、そして「地獄に堕ちるわよ」という言葉に込めた想い…。“女帝”と呼ばれた細木数子の全盛期から晩年、そして最期の瞬間を、娘の細木かおりさんが語った。(前後編の後編)
タッキーが自宅弔問…葬儀で「花がなかった」裏事情
――“六星占術”ブームが巻き起こった2000年代初頭、かおりさんはどのような生活を送っていたんですか?
細木かおり(以下、同) 母が数々のテレビ番組に出演していたとき、私は神奈川で3人の子育て真っただ中でした。母が収録終わりにロケバスで訪ねてきたこともあったりして。でも細木数子の姪であることは、周囲にはずっと隠していました。
――それはなぜですか?
細木数子目当てで寄ってくる人がいたり、根ほり葉ほり聞かれたりするのが嫌だった。なにより子どもが危険な目に遭うのが怖かったので。
――全盛期の細木数子さんは、どのようなスケジュールで働いていたんですか?
母は仕事人間だったので、休むことはほとんどなかった。平日はテレビ出演とマスコミの取材対応、土日は個人鑑定と講演会でみっちりスケジュールが入っていましたね。
――弱音や愚痴をかおりさんに吐くことはあったんでしょうか?
ありましたよ。誹謗中傷を受けたり、あることないことマスコミに報道されて、反論できないストレスはあったと思います。「世のため人のために働いてんのに、なんでこんなこと言われんだろうね…」ってぼやいたりしてましたけど。
――当時、数々の冠番組を持っていた細木数子さんですが、共演者がご自宅に遊びにきたことは?
ありましたね。タッキー(滝沢秀明)が一人で来たこともあったし、有田さん(くりぃむしちゅー)とホリケンさん(ネプチューン)と一緒に来たこともありました。
――タッキーが自宅に⁉ それは羨ましい!
タッキーは、母の訃報を聞いたときも「ご自宅に伺ってもいいですか」と、すぐ連絡をくださいました。葬儀場だと報道陣がたくさんいて、ご迷惑になるかもしれないから、と気を遣ってくださって。出棺前の母を前に「数ちゃん、元気でね」と手を合わせて、お別れをしてくれました。当時マスコミでは「タッキーからの花がなかった」って記事が出てましたが、本当に義理堅い方だなと思いました。
全盛期での引退、六星占術の継承、そして晩年と最期
――まだまだ引っ張りだこだった時期に、TVの一線から退いた理由は?
本来、六星占術をもとに個人鑑定や講演会を開いて、悩んでいる人を助けてきた。書籍が売れたことを機にTVに出始めて有名になりましたけど、そういった自分の原点に返りたかったんだと思います。
――六星占術はどういった流れで継ぐことになったんですか?
母は「80歳で引退したい」「ハードスケジュールから解放されて、晩年は人間らしい生活を送りたい」とずっと言ってました。それで、私が30歳ぐらいのときに、母から「そろそろ考えてよ」って言われて。
――そのときの心境は?
最初は冗談かと思ったんです。でもそこから5年経って、母が高齢になったことで、マネージャーとしてガッツリ携わるようになりました。ただ、個人鑑定だけは、長年一緒に働いているスタッフさえも入れない空間だったんです。でも、母から「横に座って聞きながら学びなさい」と言われて、そこで私も周りも初めて「これは本気だ」と感じたんです。
――継承するうえで、細木数子の娘というプレッシャーや葛藤はありましたか?
母から「細木数子にならなくていい」と言われたのは、すごく大きかったなって思います。細木数子の信念や教え、占術的なことは引継ぎつつ、時代に合わせた発信の仕方をしたり、「自分らしく人の助けになる行動をすればいい」ということだったので。
――細木数子さんは晩年、どのように過ごされていたんですか?
孫やひ孫と遊んだり、家族との時間を大切にゆったり過ごしていました。母は昔から「病院で死ぬのは嫌だ。私は絶対、家族全員に見守られながら自宅のベッドで逝きたい」と言っていたんですが、最後の最後まで自分の望みを叶えた、いかにも細木数子らしい最期でした。
――どんな最期だったんでしょうか?
80歳を超えてもタバコを吸ってたので、何度も肺炎を繰り返してたんです。前日に発熱して抗生剤を打ってもらい、私が「大丈夫そう?」って聞くと、「大丈夫」とだけ返ってきて。それが親子で交わす最後の言葉になりました。翌朝、主治医から「ちょっと呼吸が…」って言われて、ひ孫も含めて家族みんなに見守られながら自宅のベッドで静かに旅立ちました。

