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萩原健一のカリスマ性とその代償…日本のビートルズになれたかもしれないザ・テンプターズの分岐点

萩原健一のカリスマ性とその代償…日本のビートルズになれたかもしれないザ・テンプターズの分岐点

2019年3月26日に亡くなったショーケンの愛称で親しまれた俳優兼ミュージシャンの萩原健一。その原点はグループサウンズブーム中に登場したザ・テンプターズでの活動があったが、彼はバンドに何をもたらし、そして何を変えてしまったのか。

日本のバンドに訪れた2つの道

1967(昭和42)年から68年にかけて、グループ・サウンズ(GS)は日本中を巻き込む大きなブームを巻き起こし、最盛期には数百ともいわれるプロ、およびセミプロのバンドが全国各地で活動した。

それらのほとんどはベンチャーズが下地を作ったエレキブームから誕生し、ビートルズのブレイクで大きな刺激を受けて、ローリング・ストーンズやアニマルズなど、イギリスのバンドの影響下に入った。

ビートルズの来日公演をきっかけにして、1966年の夏にザ・ワイルド・ワンズが結成されて、秋に発売したデビュー曲の『想い出の渚』が大ヒットした。

彼らは4人のメンバー全員が歌って演奏し、レコードデビューの時にオリジナル曲にこだわったビートルズのようだった。

同時期には、最も早くからビートルズの音楽を目指し、コピーすることで実力を身につけながら、かまやつひろしのソングライティングでオリジナルの日本語ロックにも挑戦していたザ・スパイダースがいた。

商業的な成功を狙って、職業作家の浜口庫之助が書いた歌謡曲『夕陽が泣いている』をリリースした。

これが大ヒットしたことから、日本のバンドには2つの道が開ける。

一つは、ビートルズの歩んだ歴史や精神を受け継いで、ライヴで客に鍛えられながら成長して、クリエイティビティと実力を兼ね備えたグループになるか。

それとも、プロの作品を歌って商業的な成功を目指すのか。その二者択一だった。

とはいえ、バンドのメンバーに選択の余地は少なく、バンドを発掘して売り出すレコード会社やプロダクションが、圧倒的に強い主導権を握っていた。

わずか2年で終息してしまったブーム

その結果、早くヒットを狙った楽曲が量産されたために、発掘した音楽への「あこがれ」や、ルーツ・ミュージックから受け継ぐ「魂」、過剰な「自意識」と心の「純粋さ」、「反抗精神」からくる不良性など、イギリスのバンドたちの作品を根底で支えていた要素が薄まってしまった。

ビートルズやローリング・ストーンズの音楽が半世紀以上過ぎても、揺るがない前人未到の風景の中にいるのは、バンドにも音楽にも唯一無二のオリジナリティがあったからだ。

どちらのバンドも、最初の頃はカヴァー曲ばかりをやっていた時期があり、プロになって成功してからもそれを続けながら、バンドの中からソングライターが育って、音楽的に大きく成長した。

しかし、“学ぶよりもまず真似る”という日本の芸能界では、「カッコイイ」バンドのために、「カッコイイ」楽曲を作れる若者、若くて「センスのいい」ソングライターを見つける方向に進んだ。

その多くはバンドの内部からではなく、ジャズやシャンソン、クラシックなどの音楽をバックボーンに持っている外部の人たちだった。

作詞家でいえば、橋本淳、なかにし礼、山上路夫、安井かずみ。作曲家でいえば、すぎやまこういち、鈴木邦彦、筒美京平、井上忠夫、村井邦彦、加瀬邦彦といったフリーの作家たちが輩出された。

だから日本のグループサウンズがヒットさせた楽曲にはロック色が希薄で、新しい感覚の歌謡曲になっていったのは必然だった。そして短期間でマンネリ化したことから、ブームはわずか2年で終息してしまう。

そんな中で大きな可能性を秘めていたのが、1967年に登場してきたザ・テンプターズだった。

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