「くりぃむしちゅー」デビューのきっかけには、東京きってのコント職人「コント山口君と竹田君」との絆があった。弟子入り秘話からコンプラ違反ギリギリのコンビ名の騒動まで、山口弘和(68)が当時を振り返る!
─「くりぃむしちゅー」との出会いは?
「当時、月に1回の定期ライブをやってたんですよ。その楽屋に『弟子にしてください』って来たのが、最初でしたね。でも、コントは落語や歌舞伎みたいな伝統芸能とは違うから、徒弟制度じゃなくて先輩・後輩ならいいよと。だから、彼ら2人は弟子じゃなくて後輩なんですよ」
─その時の印象は?
「まだ2人とも大学に行ってたのかな? しっかりした受け答えができるなっていう程度でしたけど。いちばん覚えてるのは、有田(哲平)のほうが、CAの女性と付き合ってるって言ってね。この野郎、羨ましいなっていうことは覚えてますけど(笑)」
─後輩という立場で付き人もされていたのですね?
「そうそう。俺のほうに有田、竹田のほうに上田(晋也)が付くような形で。でも、ずっと付き人ばっかりやってても芸を磨けないから、割とすぐにライブに出てもらったんです。お客さんからお題をもらって翌月のライブまでに新ネタを考えて、お客さんの前で披露するっていう形にしていました」
─最初、お2人のネタを見た感想はどうでした?
「なんかね、ベタな漫才ネタで、上田がクサいボケしてたんですよ。だから、『本当にこんな漫才やりたいの?』と言った覚えはあります。そしてら、すぐに有田がボケで上田がツッコミをする漫才に変えてきた。その笑いのセンスは、俺の発想にはないネタで面白かった。だから、ネタに関しては、型にはめるようなことはしなかったね」
─付き人としては、要領がよいタイプでしたか?
「2人とも、言われたことだけじゃなくて、頼まれていないことも積極的にやるよくできた付き人でしたよ。あえて言えば、若い人特有の生意気さというか怖いもの知らずなところはありましたけどね。でも、自分もそうやって反発してきたし、芸人には反骨精神が必要だしね。そういう意味では、素質があったのかな」
─時には、厳しく𠮟る場面も?
「昔、ポール牧さんの弟子をやっていた頃、厳しくしつけられたんですよ。もうね、理不尽を絵に描いたような人だったから(笑)。だから、厳しくしたらダメだって思ってたんで、スタッフさんに対する態度については細かく言いましたけど、それ以外は仲のいい先輩と後輩みたいな関係ですよ。例えば、車で移動する時に、上田は当時から雑学が好きだったんでクイズ大会をしながら過ごすとか。萎縮すると自由な発想や発言ができないですからね」
─逆に、今だから謝りたいことは?
「新人の時、あんまり元気がなかったから、コンビ名だけでも勢いを付けようってことで、いろいろな名前を考えたんですよ。その頃、島原で火砕流の話題があったから『島原火砕流・土石流』とか『雲仙普賢岳』で、どうだ、とか。よかれと思って提示したんですが、本人たちが嫌がってね。結局、『海砂利水魚』に落ち着きましたけど」
─現在も第一線で活躍するお2人をどう思う?
「付き人を辞めてから、少し売れるまでに時間がかかりましたよね。でも彼らは、コントやトークライブで腕を磨いたり、雑学っていうキャラで押してみたりいろいろな工夫をして、今の地位があるわけです。だから、『俺のおかげで売れたんだ』なんて言いませんよ、彼らの力ですから。それと、彼らも俺たちのことをたまにネタにして話してるらしいから、これから俺らもネタにさせてもらうかなって思ってますけどね(笑)」
まろやかな「師弟の絆」がくりぃむしちゅーの隠し味!

