
「ギネスビール1杯いくらですか?」
電話の向こうの女性にそう尋ねられたバーテンダーは、「6.20ユーロです」と簡潔に答えます。
どこにでもあるやり取りですが、この会話には一つだけ決定的に違う点がありました。
その女性は、人間ではなかったのです。
これは、AI音声エージェント「レイチェル」が実際にパブへかけた電話の一場面です。
2026年のある週末、なんとAIがアイルランド全土のパブ約3000軒に電話をかけ、ギネスビール1杯の価格を尋ねる大規模な調査を瞬時に行ってしまいました。
この出来事は、AIの可能性を私たちに教えてくれるものです。
目次
- AIが3000件のパブに電話をかけ、ギネスビールの値段を尋ねる
- 多くのお店の人は、相手がAIだと気づかずに返答していた
AIが3000件のパブに電話をかけ、ギネスビールの値段を尋ねる
この取り組みの出発点は、とても個人的な不満でした。
開発者であるアメリカ人エンジニアのマット・コートランド氏は、ある日ギネスビール1杯に7.80ユーロ(約1430円)を支払ったことに強い違和感を覚えます。
「これは高すぎるのではないか?」
そう感じた彼は、単なる愚痴で終わらせず、もっと大きな疑問にたどり着きました。
ギネスビールが生まれたアイルランドでは、ギネスビールの価格が店によってかなり違うのに、その実態を示す最新の公的データはほとんどありません。
アイルランド中央統計局は2001年から2011年までパイント(容量の単位。ビール一杯の標準量)価格を追っていましたが、その後は追跡をやめており、約14年間の空白が生まれていたのです。
そこでコートランド氏は、自分で価格を集めてしまおうと考えました。
ただし、対象は全国規模です。
人手でも不可能ではないにせよ、短期間で数千軒を調べるには、膨大な手間と費用がかかります。
そこで使われたのがAIでした。
彼が作ったAIエージェント「レイチェル」は、自然な北アイルランド訛りの女性の声でパブに電話をかけ、「ギネス1杯の値段はいくらですか?」と尋ねる役を担いました。
使われたのは、会話音声を作るAI、電話をかける仕組み、パブの所在地や連絡先を整理する地図サービス、そして通話内容から価格を抜き出す別のAIです。
つまり、話すAI、電話する仕組み、読み取るAIを組み合わせた自動調査システムを開発したのです。
しかも、このシステムはかなり細かく調整されていました。
最初のバージョンでは、相手が答えた価格をレイチェルが復唱して確認していました。
しかし、それをすると会話が長引き、相手が不審に思うケースが増えます。
そこで最終的には、「質問する」「お礼を言う」「切る」という、ごく短いやり取りに絞られました。
また、AIかどうか尋ねられたときには正直に答える設計だったものの、自分から名乗ることはしないようにしました。
こうしてレイチェルは、ある週末だけで3000超のパブへ電話をかけ、そのうち2052件が応答し、そのうち1000件以上の検証済み価格データが集まりました。
しかもこの一連の作業にかかった費用は、わずか200ユーロ(3万6600円)ほどだったとされています。
人が同じことをしようとすれば、もっと時間も人手も必要だったでしょう。
そしてこの調査でまず分かったのは、ギネスビール1杯の平均価格が5.95ユーロであり、最もよく見られた価格は5.50ユーロだったことです。
しかも、お店のほとんどの人は、電話相手をAIだとは気づいていませんでした。
では、彼らはAIからの電話にどんな反応を示したのでしょうか。
より詳しい結果と興味深いやり取りを、次項で見ていきます。
多くのお店の人は、相手がAIだと気づかずに返答していた
調査結果を見ると、ギネスの価格にははっきりとした地域差がありました。
もっとも高かったのは首都ダブリンで、平均価格は6.75ユーロでした。
特に観光地として知られるテンプルバー地区ではさらに高く、ある店では1杯10ユーロという価格も確認されています。
ギネスビールはアイルランドを代表する飲み物ですが、場所によっては、もはや気軽な1杯とは言いにくい値段になっているわけです。
一方で、安い地域もありました。
中部や西部では価格が比較的低く、リーシュ県(Laois)では平均5.38ユーロでした。
さらに最安値として3.00ユーロの記録もあったようですが、これについては開発者自身も「からかわれた可能性がある」と見ており、少し疑わしい数字として扱っています。
しかし、この取り組みが面白いのは、単に価格差が見えたことだけではありません。
印象的なのは、AIと人間がごく自然に会話してしまったことです。
たとえば、ある電話対応した店の人は、「6.20ユーロだよ。もし払えないなら、こちらで出すよ」と冗談交じりに返しました。
別のパブでは、「25ポンドだよ」と明らかに高い値段で冗談を飛ばした後、「来るなら5ポンドにしてあげる」と続けました。
また、「値段を知りたいのですか?ぜひ店に来て楽しんでください。ここはアイルランドでは最高のパブですよ」と答えた人もいました。
効率だけを考えれば値段をひと言伝えれば終わりですが、人間のやり取りは必ずしも効率だけではありません。
おそらく、ビールの値段自体は安い方ではないのでしょう。あえて値段を伏せるような接客ががそこにはありました。
相手がAIだと分かっていれば、まず行わない対応です。
中には、怪しく感じたのか、「何人で来るのか」「どこから来るのか」「誰と話しているのか」と逆に質問を重ねた人もいました。
すべての人がAIに気づかなかったわけではなく、違和感を覚えた人もいたのです。
そして面白いケースもありました。AI同士が会話してしまった場面です。
ある電話ではホテルの自動応答システムにつながり、レイチェルと別の自動音声がかみ合わないやり取りを繰り返すことになりました。
レイチェルは「あらまあ」と4回言い、ホテルのシステムは延々と謝り続けました。
このループは繰り返され、結局ビールの値段を知ることはできませんでした。
今回の実験が示したのは、AIが文章生成だけでなく、現実の社会から情報を集める実用的な調査役としても機能し始めていることです。
しかも電話越しでは、相手が気づかないほど自然に振る舞える場面もあったということです。
便利さという点では非常に強力な仕組みですが、相手がAIだと知らずに会話していた人が多かったことを考えると、今後はその使い方やルールも問われていくでしょう。
ギネスビールの値段を調べるという一見ユーモラスな試みは、AIの有用性を示す象徴的な例となりました。
参考文献
AI Voice Inspired by a Reality TV Star Calls 3,000 Pubs to Find the Cheapest Pint of Guinness in Ireland
https://www.zmescience.com/science/news-science/ai-pints-guinness/
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部

