
『鬼滅の刃』第1巻 Blu-ray&DVD(アニプレックス) (C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable
【画像】え、「腕ふっと!」「どれだけ鍛錬積んだら…」 ラーメン屋風の「炭治郎」を知る
序盤の鬼に炭治郎は同情していたけど?
2026年4月5日(日)よりTVアニメ『鬼滅の刃』シリーズがフジテレビ系にて全編再放送されることで、物語をもう一度たどる人も多いでしょう。あらためて見返してみると、序盤に登場する鬼と中盤、終盤に登場する鬼では、受ける印象がまったく違うことに気付くはずです。この印象の変化は鬼の描かれ方だけによるものではなく、主人公である「竈門炭治郎」の「優しさの質」が変わっていることも影響しています。この記事では序盤、中盤、終盤の鬼の変化を炭治郎の内面の変化と合わせて考えていきます。
まず序盤の鬼には、まだ人間だった頃の気配が残っていました。「手鬼」は人間を50人喰ったと語っていますが、のちに登場する鬼たちと比べれば少ないものですし、鬼としての年月も浅い存在です。炭治郎はその手鬼が最期に兄を思い出して涙を流すのを見て、「悲しい匂い」を感じ取り同情を寄せます。
さらに「響凱」に対しては「あなたの血鬼術はすごかった」と敬意を示しました。「那田蜘蛛山」で戦った下弦の伍の「累」に対しては、死の直前まで追い詰められたにもかかわらず、消えゆく累から「大きな悲しみの匂い」を感じ取り、その背中にそっと手を置きます。累の着物を踏んだ水柱の「冨岡義勇」に対して怒ったのも、「鬼もかつて人だった存在」として向き合っていたからです。
しかし、その一方で、自分の欲望のままに少女をさらって喰い、恐怖を与えることを楽しむ「沼鬼」に対しては、「完全に人間性を失った存在」として強い怒りと嫌悪感を向けました。
中盤における鬼の特徴は、人間だった頃の弱さや欲が「ゆがんだ形」で表面化している点です。「無限列車編」に登場する下弦の壱の「魘夢」は相手の弱さを利用して心をもてあそび、相手の不幸や苦しむ顔を楽しみにしています。
「遊郭編」に登場する上弦の陸である「妓夫太郎」と「堕姫」は、人間だった頃の過酷な人生への恨みや嫉妬が鬼になってからもゆがんだ形で根強く残っていました。
「刀鍛冶の里編」では、上弦の肆の「半天狗」は極端にゆがんだ「自己正当化」を見せ、上弦の伍の「玉壺」も芸術の名を借りて人の命をもてあそぶ、ゆがんだ創作欲を見せました。
物語の中盤では炎柱の「煉??獄杏寿郎」の死をとおして炭治郎は大きく成長し、鬼の「行動」を見るようになっています。上弦の参の「猗窩座」に対しての「逃げるな卑怯者!」という言葉は、鬼だからではなく、逃げたという行為に対して発した言葉であり、炭治郎の内面の変化を象徴しているといえるでしょう。
終盤に出てくる鬼たちは、それまでの鬼と比べものにならないほど強く、そしてそれぞれがすでに鬼としての価値観や哲学が完成されています。「無限城」で炭治郎が戦った猗窩座は強さに執着する鬼であり、煉獄さんの仇でしたが、炭治郎は彼に対して戦士としての誇りは認めています。ここまでの鬼との戦いを通してついた炭治郎の覚悟が、相手を認めるという変化を生んだのでしょう。
『鬼滅の刃』では、序盤、中盤、終盤で鬼の質が変わるにつれて、炭治郎の内面も大きく成長し、変化していきました。この変化の相乗効果こそ、『鬼滅の刃』が長く多くの人に愛されている理由かもしれません。
※煉獄の「煉」は「火+東」が正しい表記。
