大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目を集める豊臣秀吉。名将で知られる秀吉には美食家のイメージがあるが、その食卓に並んでいたのは、意外にも質素な「思い出の味」だった。茶聖・千利休と共に作り上げた懐石料理の原点、そして衰えゆく体力を補うために晩年に食したある獣肉とは。
河合敦氏の書籍『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』より一部を抜粋・再構成し、豊臣秀吉の食へのこだわりを解明する。
豊臣秀吉は分けて食べるのが好き
豊臣秀吉は美食家というイメージがあるが、晩年まで質素な食事をしていた。
麦飯や米を小さく砕いてから水で炊く割粥や、大根やゴボウを好んでいたという。とくに幼い頃にお使いで叔母の家に行ったとき、お椀いっぱいによそってもらった麦飯が、生涯で一番うまかったと回想している。
こんな話も伝わっている。あるとき秀吉は母の菩提を弔うため高野山へ参詣に行ったが、急にそこで「割粥を食べたい」と言いだしたのだ。母が食べさせてくれたのを思い出したのかもしれない。
割粥というのは、米を石臼で三分の一ぐらいに砕いてつくったおかゆのこと。ところが、高野山には臼がなかった。とはいえ天下人の頼みなので断るわけにはいかず、僧侶たちは大勢で米を一粒ずつ包丁で刻んで粥をつくった。
秀吉は、懐かしい割粥を堪能しながら、「どうやってこの料理をつくったのか」と僧にたずねた。そこで方法を伝えると、「臼がないなら粥は食べなくてもよかった。包丁で米を刻むなど贅沢である」と𠮟りつけたという。
食べ物について、秀吉は正妻のねね(北政所)にこんな手紙を書いている。
「蜜柑を十個贈りますね。ねねは五つ、養女の豪は三つ、養子の金吾は一つ半、養女の小姫は半分、きちんと分けて賞翫してくださいね」
食べる個数まで指定しているユニークな書状だが、やはり秀吉は、みんなで同じものを分けて食べるのが好きだったようだ。
懐石料理の原型をつくった人物
そんな秀吉が熱中したのが「茶の湯」だ。
茶の湯といえば、数人で集まって作法に従って静かにお茶を喫するというイメージが強い。だが、当時の茶会では食事も提供されたのだ。「茶懐石」「懐石」と呼ばれる、いわゆる「懐石料理」だ。
変わったネーミングだが、もともと禅寺での「温石」に由来するという説がある。
温石というのは、寒さや空腹をしのぐため、僧侶たちが温めた石を布や綿でくるんで懐中に入れるもの。つまり、石を懐に入れたので「懐石」。温石で腹を温めるように、茶を飲む前に質素な食べ物で腹を満たすというわけだ。
茶会の主催者(主人)は、茶を喫する前に客を軽食でもてなした。本膳料理(武家の正式な料理)のように二の膳、三の膳はあまり出ないし、一の膳の内容も「一汁三菜」程度だった。
一汁三菜とは、一椀の汁物と三品のおかず。おかずは、なます(細く、または薄く切った魚肉などを合わせ酢に浸したもの)と煮物と焼き物だ。この懐石料理の原型を考案したのは、茶の湯の大成者・千利休である。
利休が秀吉を招いた茶会での懐石料理の記録も残っている。
たとえば天正18年(1590)11月2日の茶会では「一の膳に串鮑と鮭焼物に納豆汁・飯・香の物をのせて出し、そのあと二の膳に鯉のさしみと中骨のついた汁が出された二汁三菜の料理」(筒井紘一著『茶の湯事始』講談社学術文庫)を出している。さすがに天下人なので、二の膳まで提供しているが、比較的内容は質素だ。
天正15年(1587)10月1日、秀吉は京都の北野天満宮で茶会を開いた。
茶会には、地位も身分も関係なく、当日は全国から千人近くの人びとが参加したという。そんなことから「北野大茶湯」と呼ばれるが、この大茶会をプロデュースしたのはもちろん利休であった。

