アサ芸史に残る名物記者が登場。GHQ傘下諜報機関幹部を直撃し、あの誘拐殺人犯の愛人の口を開かせ、「玉砕の島」から生還した元兵士らの声も記事化した。御年88歳の今も精力的に活動する彼の「不変の現場主義」とは─。
現在、「太平洋戦争研究会」代表を務める平塚柾緒氏がアサヒ芸能の記者になったのは今から63年前の1963年のこと。
「当時はまだ『アサヒ芸能出版株式会社』でしたね。私は安保闘争だ何だで旗振ったりしていましたから、就職なんてできなかったんです。日々、ブラブラしていたら仲間の1人がたまたま『アサヒ芸能』を買ってきていて『記者募集しているぞ』って」
縁は異なもの。採用となり、同年4月から記者生活が始まるのだった。
「もう1人の同期の記者は銀座のクラブに入り浸り。ネオン街の取材が得意でしたね。私は、そっちはまったくヘタクソ。よくやったのは事件ものやヤクザ記事でした。ヤクザとか総会屋さんとか、どっちかといえば裏社会の人たちと付き合いが深まりましたね」
平塚氏に見せていただいたアルバムには、当時名を馳せたヤクザとの写真も。さらに、担当する連載もヤクザの香りが漂う。安藤組を立ち上げ数々の伝説を残し、組解散後は映画スターとして活躍した安藤昇氏の小説「やくざと抗争」を担当した。
「安藤さんの家にも何回も行きましたよ。原稿をもらう時は、安藤さんの馴染みの喫茶店が銀座にありましてね。いつもそこで待ち合わせて原稿をもらいに行って。当時の安藤さんは映画にも出ていて著名人ですよ。それでいて真っ白なスーツを着てくるものだから、みんなチラチラ見るんですよ。まともに見るのは怖かったんでしょうね」
日本を恐怖と怒りで震撼させた「吉展ちゃん誘拐事件」の記事も、平塚氏によるものだった。
1963年3月に起きた身代金目的だったこの誘拐事件は、2年3カ月後に被害者が遺体で見つかるという痛ましい結果だけではなく、苛烈な報道合戦でも注目された。平塚氏はこの事件で犯人の愛人に直撃している。
「アサ芸の場合、真正面から行っても新聞社にはかなわないじゃないですか。だから、どっちかっていうと裏情報を集めてね。聞き込み取材の定番ですよね。すると『こういうアパートに住んでいるよ』っていう情報が耳に入ってきたんです。念のために運転手さんと2人でひと晩張り込んでいたら、その女性が夜中にアパートに入っていったんですよ。翌日は大家さんに了解とってずっと張って」
見事、直撃に成功する。髪振り乱し叫ぶ女性に食い下がり、告白を引き出した。この時、徹夜で張り込んでいたのはアサ芸とNHKだけ。NHKが張り込みを断念したため、愛人の告白は独占スクープとなり、その後、実名手記も掲載した。
「私が妻をコンクリート詰めにした! 自首直前に告白した猟奇殺人犯の涙」(1965年12月19日号)で、殺人犯から編集部にかかってきた電話を取ったのも、平塚氏だ。
「( 犯人が)たまたまアサ芸の読者だったらしいんですよ。こっちも記者ですからね。警察にタレ込んじゃったらほかの新聞社とかが来るじゃないですか。そうしたらせっかくのいいネタがパーですから、事前に案内してもらって。写真部のカメラマンも一緒に行きました。で、確認して撮って、警察に連絡したんです」
当時の記事には「部屋には死臭が漂い‥‥」とあるが、はたしてどんな悪臭なのか聞いてみると「細かいことはもうね、ちょっと忘れちゃいましたね」と、凄腕な事件取材も担当してきた記者らしからぬ優しい笑顔を見せるのだった。

