古今東西、世界には「独裁者」と呼ばれたあまたの権力者がいるが、この男ほど権力が内にある狂気を呼び覚ました者はいなかったのではないか。それが「暴君」の代名詞として知られる、皇帝ネロである。
ネロは紀元54年、野心家の母アグリッピナの助力により、弱冠16歳でローマ帝国の第5代皇帝に就任。しかし、権力を振りかざす母を疎ましく思ったネロは、なんと殺害してしまう。歯止めを失ったこの男の残虐性はこれを機に、一気にエスカレートすることになる。
愛人ポッパエアと再婚するため、政略結婚させられた妻オクタウィアを追放し、自殺することを命じたが、オクタウィアはこれを拒否。すると四肢の血管すべてを切り開かせるといった残虐な方法で、殺害してしまう。
ところが、正妻の座に就いたポッパエアもネロの子供を妊娠中、口ごたえしたことで蹴り飛ばされ、胎児とともに殺されてしまうのだった。
命令さえすれば、部下が簡単に人を殺してくれる。そして自分が人を殺しても、処罰されることはない。もはやこの男の狂気は、誰にも止めることができなかった。
そんなネロが残虐行為と同時に倒錯していったのが「淫欲」。ネロの性欲は通常の行為で満たされることはなく、既婚女性や近親者、さらには年端のいかない少年にまで及んだ。
ネロが最も執着した相手は、スポルトという少年だった。ネロはスポルトの精巣を切り取ると華やかな結婚式を挙げ、仲睦まじいツーショット姿を沿道の人々に見せびらかしたというから、尋常ではない。
その後も子供時代の乳母や家庭教師、護衛隊長、さらには奴隷など、年齢や性別に関係なく行為に及んだ皇帝ネロ。そんな最中に起こったのが、紀元64年7月のローマ大火だった。
大競技場から上がった火の手は風に煽られて六日七晩燃え続け、ローマの大部分が焼け落ちた。そしてこの大火災が、ネロを追い詰めることになったのである。
というのも当時、ネロは新都市建設を画策しており、ネロが故意に火をつけたのではないか、との噂が市民の間に広がったのだ。そこでネロは、キリスト教徒を犯人としてでっち上げた。
捕らえられたキリスト教徒は柱に縛りつけられ、全身に油を塗られて夜の街頭代わりにされたり、闘技場で野獣のエサにされたという。
ところがネロの思惑は外れ、市民の反発は強まるばかり。ネロは「国家の敵」とみなされ、召使いの別荘に逃げ込んだものの反乱軍に包囲される。最後は自ら剣を喉に突き刺し、絶命したのである。享年30。
最後に残した言葉は「余が死ねば、偉大な偉大な芸術家がひとり減るではないか」。遺体の目はカッと見開いたままだったという。
(山川敦司)

