
■「あの冒頭のシャワーシーンに、衝撃を受けてしまった」
――前回は黒沢清監督の『散歩する侵略者』(17)について語っていただきました。彼の映画、とりわけホラーにはケレン等が一切なく、ほかの監督たちとはまるで違う恐怖が演出されている…みたいな感じでしたが、これから取り上げるのはそういう黒沢さんとは対極のケレンだらけの監督の作品だということですね?
「そうです。もうわかったでしょ?」
――私の大好きな米国の監督といえば…。
「そう、ブライアン・デ・パルマです。彼の作品のなかで私が『裏切られた!』と思ったのが今回取り上げる『殺しのドレス』。黒沢さんの真逆。ケレンの塊。それしかないから上映時間(105分)も短くて大正解ですよ。で、『殺しのドレス』の裏切りってなんだと思う?」

――うーん…ヒロインと思われていたアンジー・ディキンソンが早々と殺されてしまうところ?おそらくデ・パルマは『サイコ』(60)のジャネット・リーを意識したんでしょうけど。押井さん、ディキンソンの大ファンだから彼女がらみの“裏切り”なのかなって。
「“彼女がらみ”の部分は正解です。というのもおっしゃるとおり、私はディキンソンが大好きなんですが、本格的に彼女に開眼したのはこの『殺しのドレス』。もちろん『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(67)のころから認識はしていたけど、ときめくまでは行ってなかった。それが『大好き』に変わったのが『殺しのドレス』なんだよ。なぜかと言えば、あの冒頭のシャワーシーン。私は衝撃を受けてしまったわけです。でも、当時の日本の映倫によって当然、ボカシが入っていてよく見えない。湯気がモウモウ状態で胸さえよくわからない。だから、私は並行輸入でアメリカ版のVHSを買ったんですよ」
――は、はあ。
「それを観てわかったのが、あのシャワーシーンの首から下はダブル(=代役)だったということ。私がいかにショックを受けたか、わかるでしょ?」

――いやいや押井さん、もしかして今回の“裏切り”って…。
「そこです。『ダブルだった』という裏切りです」
――それはちょっとレベルが低すぎませんか?黒沢監督の時は理詰めだったのに。
「前回で映画の本質に迫るような話をしたんだから、今回はこういうのでもいいじゃないの。裏切りには違いないし、そういう裏切り、映画ではよくあることでもあるから取り上げたんです。黒沢さんと対比するとおもしろいでしょ?」

――はあ、まあそうですが。
「ケレンというのは映画の一部というか、娯楽映画には必須の要素なんです。ケレンの本質というのは小さな裏切り、小さな意外性の連続。その連続で見せるのが娯楽映画と言ってもいい。『当たり前のことを当たり前に撮ったら、それはエンタメじゃない。とりわけ相手が子どもの時は』――ということを、かつて『ヤッターマン』をやる時、私は笹川(ひろし/タツノコプロで『タイムボカン』シリーズ等を手掛けた監督)さんに言われたから。『(子どもに)3分で横を向かれたらお前の負けだ』とも言われたし、『今日で(ジャン=リュック・)ゴダールのことは忘れろ』と言われたわけじゃないんだけど、私の耳にはそう聴こえたんですよ。で、やってみたら意外とフィットした。意外性を連発するのが思いのほか得意だった。私の場合はそれがギャグなんだけど。『ヤッターマン』をやったことで、そういう自分の意外性に気づいたわけだ。
この『ヤッターマン』にはもう一つ、逸話があるんだよ。ほら私、空手の道場にもう20年は通っているじゃない?ある時、そこの師範代に『私がいま空手をやっているのは、あなたのせいです』って言われてね。当時、中学生だった師範代は剣道少年だった。でも、部活をやっていると『ヤッターマン』の再放送に間に合わないから剣道部をやめてしまい結果、空手をやることになったというんだよ。だから、『あなたが『ヤッターマン』をやっていたんですね!』と突然、尊敬のまなざしになり以来、扱いがガラっと変わったんです…。『殺しのドレス』とはまるで関係ないけど」
■「以前の出演作と『殺しのドレス』のおっぱい、まるで違うんです」
――で、押井さん、なんでダブルだとわかったんですか?つまり、胸の部分はぼかされてないのに、それもダブルだと見破ったんですよね?
「そうです。ディキンソンが出た映画で『ビッグ・バッド・ママ』(74)というのがあるんだけど、あれで彼女、脱いでいるんですよ」

――ロジャー・コーマン製作のギャング映画ですね。私は観てないけれど公開当時、思いのほかいいと評判でした。
「その時の彼女のおっぱいと『殺しのドレス』のおっぱい、まるで違うんです。『ビッグ・バッド・ママ』のほうが前に作られたにもかかわらず、それよりも若い胸だったからね。これはなにを意味しているかと言えば、首から下はダブルということ。というより、湯気モウモウのなかの全身も多分、ダブル」
――いや、押井さん、配信で今回チェックしたんですが、最初に映る湯気のなかの裸は本人だと思います。で、胸や下半身のアップはダブルで間違いないかと。
「そんなによく見えたの?」

――ええ、かなりはっきり。下半身にぼかしも入ってなかったです。
「それはヘアヌード版というバージョンだろうね。いろんなバージョンがあるんだけど、公開当時はしっかりボカシが入っていたんです!
公開で観た時、いきなりシャワーシーンから始まるなんて思ってもいなかったから『やったー』って喜んだわけ。でも、カメラがパンするとボケボケになっちゃうんです。デ・パルマ特有の視線的な舐めるようなパン。最後もシャワーシーンで、ナンシー・アレンがヌードになっている。このシーン、彼女を捉えたカメラが床を這って違う方向に行くのがおもしろい。そういうところはデ・パルマらしいこだわりがある」
――そのシーンを含めて『サイコ』だらけでしたね。久しぶりに観直して、ここまで徹底していたんだと改めて驚きました。
「それですよ。つまり、『殺しのドレス』で憶えているのはシャワーシーンと、犯人が二重人格のマイケル・ケインだったということだけ。あとはほとんど忘れちゃってる。本作に限らず、デ・パルマの映画はほぼそんな感じ。全体像を憶えてない」

――そういう傾向はあるかもしれませんね。
「なので、わざわざ輸入盤のVHSまで買ったのに、憶えているのはシャワーシーンだけになっちゃう。いま配信でもボカシナシが見られるのはいいことですよ。だってほら、そういうボカシが入ることで映画の核心が見えなくなることってあるでしょ?」
――あります!たくさんあると思います。
「『ぼくのエリ 200歳の少女』(08)とか、まさにそうじゃない」
――押井さん、その映画、確かにボカシのせいで“裏切られた”ことになりましたよ。じゃあ後編で、その手の“裏切り”についても語っていただきます。もちろん、もっとデ・パルマ映画についてもお願いしますね!
取材・文/渡辺麻紀
